人の記憶とは実に曖昧なものだと思う。
そこには永遠不変という言葉は決して存在しない。
風化。忘却。編纂。
それが人の記憶を曖昧にさせてしまう原因。己がどれほど大事にしている思い出であっても、どれほど切ない想いであっても、人は皆それらから逃れる事は出来はしない。
しかし、だからと言って、自分の中にある温かなものをそのまま放置する事が出来る人は稀だろう。人はどうにかして永遠を保とうとするものだ。
例えば、デジタルに置き換え、永久に変わる事のない形とし、それを棚の奥へとしまい込む人がいる。
例えば、新しいものを積み重ねていく事によって新鮮な空気を取り込み、想いを常に保ち続けようとする人がいる。
例えば、雑草を抜き常に水をやって、こまめに手入する人がいる。
千差万別。人の取れる選択肢も、豊富にあろう。
もちろん私にも当てはまる事。私は、それらの選択肢を思いつく限り試していた。
今ある記憶を、合成という形を取ってデジタルへと置き換えてみたり。
昔と同じ行動を取って、変わらぬ想いを確認してみたり。
追想に耽り、己の心を過去へと馳せさせてみたり。
あるいは、それらを複数重ね合わせて行ってみたり……。
どれもこれも、私には決して欠かせない大切な儀式。敢えて、それらの中で特に私が一番気に入っているものを挙げるとしたら――
それは『追憶に浸る』というものであった。
〜アリウムの花束を〜
番外『紫苑の風景(前編)』
ベッド、机、カフェテーブル。大まかなものと言えばそれぐらいだった。必要最低限の物しか置かれていない、質素な部屋。飾りも何も無い実用本位の部屋。しかし、それとは裏腹に生活感だけはしっかりと感じさせてくれる。部屋の主の心の中を反映しているか、視界の邪魔にならない隅の方にひっそりと整頓されて……。
「お邪魔しまーす」
そんな落ち着いた佇まいを持つこの室内に、一人の女性が訪れた。何が楽しいのだろうか、その顔からはいつも笑みが絶える事無く、次いで、周囲の空気に丸ごと活気を持たせるような声を持つ女性。
「どうぞ、ユリカさん」
その女性――ユリカは、部屋の中から現れたルリに声を掛けられると、返事を返す代わりに更にその笑顔を深いものとさせた。
釣られ、ルリも僅かに笑みが零れる。ただ、その笑みというものは、苦笑と称せられるもの。常日頃と変わる事のない無邪気ぶりに、何となく毒気を抜かれてしまっていた。
「ところで……」
とりあえず玄関に立って挨拶はしたが、部屋に入るでもなく。呟くと、ユリカは目の前にいるルリの存在を忘れたかのように、しきりに部屋の中に向けて、視線をきょろきょろと動かし始めた。
彼女の様子は、まるで何かを探しているようにしか見えない。少なくとも、入り口に立つ少女にはその様に見えたし、理由なら想像がつく。
案の定、ユリカは――
「ねぇ、アキトは?」
彼女がこの部屋に訪れた最大の目的は、アキトに会うためというものに他ならなかった。故に、今この場に姿を現さない彼が気になり、つい探ってしまうのも当然の事。
その質問をルリは最初から予想していたのだろう。僅かに溜息を漏らすと、用意していた答えを口にした。
「もうじき帰ってきますよ。とりあえず上がって待ってて下さい」
言った後で、先程とは別の意味の溜息が零れる。
今日の休暇は、アキトと二人で部屋でのんびりと過ごす予定だった。そこにユリカが出てくれば、自然とのんびりなどと悠長な事を言っていられる状態では無くなっていくに違いない。
(まあ、長い付き合いでしたからね)
それはユリカ自身は知らぬ事。未来での事だった。数年間というもの、そこでは自分とアキト、そしてユリカの三人で、アパートの一間に暮らしていたのだ。
たまにその頃が懐かしくなる事がある。未来に何の不安も持たない生活。二度と還る事の無い、屈託の無い笑い達。
(だから、今日だけはこうしてすんなりユリカさんを部屋に入れちゃうのかな)
泡沫へと消えた日々。なら偽りでもいいから、もう一度だけ……。アキトと二人の生活も悪くはないが、ふとそんな思いに駆られてしまいがちだった。
「その椅子にでも腰掛けててください。今お茶を入れますから」
「はぁい。ありがとね、ルリちゃん」
言うが早いか、遠慮もなく席へ着く。自分の部屋と勘違いしているのではなかろうかとも思えたが、ルリにとっては何となくそれが自然に受け止められた。
今この時だけは、ユリカは彼女の家族の一員として認められている。例えそれが、厳密な意味で同一人物ではなかったとしても。
「ん、どうしたの?何かおかしい?」
いつの間にか笑みが零れていたようだった。先程の苦笑ではなく、純粋な笑み。ユリカから見れば、訳が分からなかっただろう。何故頬が緩んでしまったのだろうか、その原因は。
「いえ、何でもありませんよ? それよりどうぞ」
ティーカップをそっとユリカへと差し出す。
ユリカの好みはあらかじめ知っていた。少し短めに時間を取ったダージリン。こんな時は未来の記憶が役に立つ。
いつかユリカは語ってくれたものだった。ダージリンのサッパリとした味わいは好きだが渋いのが駄目だとか、フルーツのような香りがいいとか。その時は彼女の言葉を右から左へと聞き流していたものなのだが……。
(まさか、私がユリカさんに淹れる日が来るなんて、ね?)
ユリカのカップに紅茶を注ぎながら、ルリは思い出の中へと身を移し始めた。
「ユリカさん! この荷物は何ですか!」
ルリの怒声が、ユリカの私室に響いた。
「えー? このティーカップ、私が小さい頃から使ってるものなのよ? ちょっとくらい荷物が増えてもいいじゃない……」
今二人は、荷造りをしている最中だった。
「広さ? 確か四坪半……だったっけ?」
ルリに言われ、ユリカは周囲を見渡す。そこには自分達がこれから持っていこうとする荷物の山。
「こんなに持ってったら、アキトさんのアパートの床が抜けちゃいますよ? せめて後十分の一にして下さい。もちろんこのティーカップとかもいりません」
彼女にとっては、どれもこれもが持って行きたいと思っている品々。とても選択して切り捨てるような事など出来なかった。それ故にこれほどの荷物になってしまったのだから。
「私の荷物はそれだけです。どうやって減らそうと言うんですか?」
ルリの指し示した場所には、ポツンとトランクケースが一つだけ。ユリカの荷物と比べると、本当にこれでいいのかと問い掛けたくなるくらい、こじんまりとしていた。例えこれを全て置いて行ったところで、彼女の荷物の十分の九をまかなえる筈がない。
「じゃあ、アキトがもっと広い家に引っ越すとか」
ユリカが両手一杯に抱えるは、紅茶のセット丸々一式。それが新聞紙で包まれ、多少の衝撃にも耐えられるような状態にされている。
「良くないですって! アキトさんの部屋、どのくらいの広さか忘れたんですか!」
これから自分の家を出て、アキトの家へと転がり込む――それが彼女達の計画。
アキト自身も知らぬ事なのだが、彼の甲斐性は誰よりこの二人が分かっていた。例え世間から後ろ指を指されようとも、彼は決して嫌とは言えないだろう。
「四畳半です! 単位が全然違いますよ! それに見てください!」
そう、山だった。本当にそう表現した方が良さそうなほどの量がそこにはある。
全て着るつもりなのかどうか分からない衣類は、トランクケース二十個分。子供の頃から何となく数が増えていたぬいぐるみは、浴槽にして大盛り一杯。様々な生活用品やら小道具が入れられたダンボール箱は、数えるのが馬鹿馬鹿しいほどうず高く積まれていた。
「えぇー!? じゃあルリちゃんが荷物を減らしてよー」
「……そんな事アキトさんに言ったりしたら、居候させてもらえなくなりますよ?」
「うぅぅ……それは困る……」
(あの時は名案だと思ったのに、結局は大失敗だったのよね。段々アキトさんと会う機会も少なくなってきたから、いっその事同居すればなんて思ったんだけど…それで、自分一人でアキトさんの所に居候する訳にもいかず、手っ取り早くユリカさんを抱きこんで……。結果的には良かったとしても、考えてみればユリカさんもあの人に近づく事になるんだから、私にとっては全然いい事無かったんじゃない)
「じゃあ、早く片付けてください。予定している時間に間に合わなくなってしまいますよ?」
ルリは、言いつつ自分の腕時計に目をやった。
「ほら、後一時間で出発なんですから……」
眉がピクリと動く。元の地が無表情だけに、その迫力は計り知れない。今更何を言っているんだ、この人は……。そう彼女の顔は、何より雄弁に語りかけていた。
「ほら、このダージリンって凄く美味しいのよ? 爽やかな渋みって言うのかな? あんまりきついのは駄目だけど……。とにかく一回飲んだらルリちゃんも気が変わるって」
どれほど紅茶が素晴らしいか語るが、ルリは耳をちっとも貸す事が無い。彼女からしたら、それ以前の問題だった。
「香りもいいのよー? マスカットって普通言われてるん――」
今度は最後まで台詞を言わせてもらえなかった。おまけに敬語すらも使われていない。彼女の内心は、そこから容易に知る事が出来よう。
「アキトも一回飲んでみたいって言ってたし……」
今度の返事は、今までと比べたら限りなく鈍い反応。それはそのまま、彼女の葛藤を表していると言っても良かった。
(……いい……)
至福だった。紅茶に思い入れがない彼女だとしても、心揺さぶられる誘惑。
(だ、駄目。そんな余裕ないんだから……)
ルリは煩悩を振り切るべく、必死にかぶりを振る。
「とにかく! まず縫いぐるみは全部置いていってもらいます」
ユリカは諦めず、尚も言い縋る。何が彼女をそこまで意固地にさせているのか。それによって、ルリの今まで堪えてきた怒りが段々表へと現れ始める。
「大体なんでこんなに持って行こうとするんですか! ナデシコに乗り込んだ時はそんなに多くなかったでしょう!?」
理解できなかった。アキトの事を思うのなら、逆に荷物を少なくするべきではないだろうか。無理矢理押しかけてしまう訳だから、あまり彼の生活領域を侵すわけにはいかないと思うのが普通だと考えていたのだが……。
「アキトの部屋が寂しくないように縫いぐるみを置いたりだとか――」
寂しくはないだろうが、まさかそれだけのために縫いぐるみを布団代わりに使う訳にもいくまい。
「アキトに見せたい服もたくさんあるし――」
確かに気持ちは分からないでもなかった。しかし、うず高く積まれたトランクケースの山で、服どころかユリカの姿すら影に隠れて見えなくなってしまうだろう。
「アキトの前ではいつも綺麗にしていたいし――」
そのおかげで、アキトの部屋が乱雑になってしまうのは構わないのだろうか。
「アキトさん、アキトさん、アキトさんって……あなたにはそれしかないんですかー!」
シンプルな腕時計。秒針も文字盤も無い、必要最小限の機能しか持たないそれ。短い針は、出発時刻のちょうど三十度だけ前の時を指していた。
「でも、このティーセットはいいでしょ?」
「駄目です」
だがユリカはおおよそそんな事に気づかず、尚も言い募る。
「駄目です」
四畳半の一間。三人が暮らすにはあまりにも狭すぎる。必要最小限の生活用品でも部屋が埋め尽くされるのは目に見えているのに、そこに嗜好品を持ち込もうなど、どうして出来るのだろう。
「駄目」
しかしユリカは、それでもへこたれなかった。
「だ……駄目です」
自分が淹れた紅茶をアキトが嗜み、それを褒めてもらい、尚且つ、穏やかな時間を共有する。
「えー?」
「当たり前でしょう? 次に服。多くてケース三つまで」
「でもでも……」
「それなんだけど、アキトの事を思ったら、ついつい……」
「は?」
どれもこれもいまいち筋の通らない理由ばかりだった。流石にこんなユリカに慣れたルリといっても我慢の限界は訪れる。
(口にするまでもなく、あの人にはアキトさんしか無いような気がするんだけど……。もう少し周りにも目を向けたらどうなんでしょうね? 言い寄る男はたくさん居るんでしょうに。私だったら……。え、えーと……私だったら……わた、し……ひょっとして、私もあの人と同類?)
「ル、ルリちゃん。そんなに怒らなくても……周りに聞こえちゃうよ?」
突然爆発したルリに、ユリカはそれほど驚いた様子は無い。それどころか、小声でルリをたしなめすらしていた。
「あっ…それもそうですね」
対するルリも、爆発した後はあっけらかんとしたものである。つまりは、何度もこんなやり取りをしたせいで、すっかり慣れてしまったという事なのだろうか。
「でも、きちんと荷物は減らしてください! 分かりましたね?」
「ぶぅー……分かったー」
「ほらほら、時間がありませんよ?」
「へぇ、これ私の好みにぴったり。ルリちゃん、紅茶入れるの上手だね?」
「えっ?」
実感の伴ったユリカの言葉に、ルリは追憶の風景から舞い戻った。
ふと手元を見る。と、そこにはいつの間にか自分で淹れただろう紅茶が、同じく自分の手の中に納まっていた。次いでユリカのカップも見てみるが、あまり量が減っていないところを見ると、それほど時間は経過していないと見てもいいだろう。
「教えてくれる人がいますからね」
あの頃と何ら変わりないユリカに頬を緩ませる。
何となく――何となくだが、その顔を見られるのが癪だった。持っていたティーカップで顔を隠しつつ、誤魔化す為に先の質問に適当に答えを返す。
「教えてくれるって、アキト?」
上手く誤魔化しきれたようだ。ユリカは言葉尻だけを捉えたのみで素直に反応を返してくれた。
「いえ、違います」
彼女の師匠は、葵ジュン。紅茶云々の技術は、アキトとユリカを引き離すべく行われた談合の副産物である。
まさかそれを当人には言えまい。内心冷や汗を流しながらも、表面上は澄ましたまま受け流した。
「じゃあ、ジュンくん?」
「ぶっ!」
いきなり核心を突かれ、ルリは口に含んでいた紅茶を己のカップへと吹き出してしまう。
まさかあの鈍いユリカともあろうものが……。ルリの心は動揺の一色で塗り潰されていた。先程まであった心休まる平穏など、もうどこにも存在しない。
「な、何故それを……」
「だって、このティーセットって、ジュンくんの物でしょう?」
「ええ、まあ……」
腑に落ちない。確かにこれはジュンから貰った物だが、何故そうと断言できるのだろう。別にたまたま同じ物を買ったという選択肢もそこにはある。彼の物と断定する方が不自然な気がするのだが……。
「ここ、欠けてるわよね?」
ユリカはそう言って、自分の前にある受け皿を指差した。意匠を凝らした、かなり贅沢な逸品。貰うにしてはあまりに高価すぎて、少し気が引けるような品だった。だが、よくよく見ると僅かにヒビが入っているのが分かる。
(葵さんがケチって、安い傷物でも買ったんでしょうかね?)
気弱な彼の性格から言って、そうとは思えない。どちらかと言えば、店員に言いくるめられて、定価通りの値段で押し売られてしまいそうに見える。自分で理由付けしてみるも、どうもいまいち説得力に欠けていた。
「実はこれ、私がお店で割っちゃって……」
「ああ…じゃあそれを弁償して買ったって事ですか。ん?でも、何で葵さんが持ってるんです?」
普通なら、弁償すべくお金を出したユリカがそれを引き取るはず。ジュンが持っている理由は無い。
いや、ひょっとしたらユリカがジュンへとプレゼントしたものなのだろうか。それなら、ユリカはジュンへ少なからず悪い印象は持っていない事になるのだから、実に自分にとって好ましい事だろう。
(でも、それだと絶対葵さんは手放す事はしないでしょう。変ですね……)
「うーん……何でもジュンくん、このカップがどうしても気に入っちゃったらしくて、ちょっと欠けててもいいから欲しいなんて言って、自分で買ってったの」
いかにも不思議そうな顔をしているユリカ。だが、ルリにはジュンの気持ちが痛いほど理解できた。
要は少しでもポイントを稼ぎたかったという事なのか。涙ぐましい努力ではある。ナデシコ搭乗時ジュンが言った、ピンチの時に駆けつけたのはアキトではなく自分だったのに――という言葉は、あながち誇張でも無さそうだった。しかし、肝心のユリカが気づいていないようでは……。
ルリは静かに首を振る。
(あの人って、結構気をきかす割には報われる事が全く無いんですよね……)
「葵さん? 今日のチャンスを逃したら、後が無いと思ってくださいね?」
まだ日が昇って間もない時間の事。
「心の準備って、そんな事でどうします! アキトさんにユリカさんを取られちゃいますよ? いいんですか?」
なにやら、突然燃え上がるジュン。
「……でも、本当にこんな計画でうまく行くのかな……」
燃え上がったのも束の間、ジュンはすぐさま自分の理性に冷や水を浴びせ掛けられ、不安を口にした。
「うまく行く――じゃなくて、上手く行かせて見せる、ですよ!」
ルリとしても、彼の思い悩んでいる事はしっかりと見透かしていた。しかし、だからと言ってここで尻込みされてしまっては困る。何の為に今まで散々苦労して計画を組み立てていったのか。
「……まあ、ここまで来たら後戻りは出来ないか……。分かった! 約束通りに夜の六時にユリカに連絡するよ」
「えっ!? ……でも、まだ心の準備が……」
ルリとジュンの横顔を照らす、弱々しい朝日。彼女達の吐き出す、白い吐息。この名前も知らない児童公園のあちこちにある、水溜りに張り巡らされた氷達。いかにもそれらは、冬という季節を感じさせてくれる。
そんな中で二人は、冷え切ったベンチに座り、話し合っている最中だった。
「くっ……! あいつにだけは絶対に渡さん! 渡してなるものかー!!」
「そうそう。その意気です」
彼女達――いや、ルリの立てた計画はこうだった。
クリスマスである今日、アキトは仕事熱心にも屋台を出す。そして、いつも通りそこにはルリとユリカの二人が付く訳だが、ユリカへとジュンから突然の仕事の連絡が入る。
嫌々ながら、一時抜け出さざるを得なくなる彼女。自然、アキトとルリは二人で仕事になる。
しかし、クリスマスという事で人足はあまり無い。ルリはアキトに、早めに仕事を切り上げる事を提案し、受け入れられ――いや、受け入れさせる。
屋台を置き、のんびりと家路につく二人。その後、ルリが密かに用意したディナーによって、何となくいい雰囲気を過ごす。
対するユリカは……。
彼女が仕事場に出てみると、そこに残っているのはジュンただ一人。ルリが必死に軍にハッキングして改竄した書類を、手に持って待っている。これがまた複雑な内容で、どれほど頑張ろうとも、二・三時間は掛かるだろう代物。
仕方無しに取り掛かる二人。しかしやっているうちに、いい加減ユリカもお腹がすくだろうから、ジュンが頃合を見計らって、ルリが予約してあったレストランへと連れ出す。
そしてそこから後は、彼の技量次第。
ルリの側はともかく、自分とユリカの為の計画がかなりずさんなのだ。アキトの性格を考えれば、そちらサイドは、明らかにルリの思う通りになろう。
だが、ユリカの方はどうか。自分の技量と言われても、それが一番の問題事項。あのじゃじゃ馬の手綱は、己の手には余り過ぎてしまうのが、今までの経験則だった。
それに、例え上手く行かなかったとしても、ルリには何も失うものが無いのが彼女を強気にさせている原因だった。言わばジュンは、彼女にとって宝くじと似たような存在なのだ。
今の時点で、ジュンが一声掛けるだけでユリカは仕事場に拘束されている事が確定している。即ち、自分とアキトは二人きりで過ごす事になろう。それのおまけでしかないのである、ジュンは。
彼がユリカに言い寄って成功すれば儲けもの、失敗すればさもありなん――という程度の認識しかなかった。
実はこの辺が、ジュンの側の計画が大雑把である原因ともなっていたのだが……。
(完璧な計画だと思ったんだけどな……葵さんの性格を見誤ったのが私の失敗といったところだったんですかね?欲張りすぎた私もいけなかったんでしょうけど)
「こうして二人きりで過ごすって、初めてのような気がしますね」
思い通りの結果だった。ユリカは計画通りジュンに呼び出され、渋々ながら職場の方へ。自分とアキトは、早めに仕事を打ち切り、己の慣れ親しんだ家でささやかなパーティー。
「ユリカが居ないとこうも静かになるもんなんだな」
その言葉を聞いたルリは、少しだけ頬を染めた。アキトが自分とこうして二人きりになる事を望んでいるという事実に舞い上がり、動悸が抑えられない。
「どうしたの? 俺のこのおかずでも欲しいの?」
ルリの周りに漂っていた甘い雰囲気が一気に霧散した。
「もうっ! 私はそんなに子供ではありませんよ?」
僅かに尖らせた声。それには、表向きの否定と、もう一つ別の意味を込めた否定があった。
「ごめんごめん。どっちかって言うとそれはユリカの方だもんな」
(またユリカさんですか……)
先程から、話をするたびにちらちらと見えるユリカの影。今この時一緒にいるのは自分だというのに、それでもアキトの頭から離れない彼女に、軽い嫉妬を覚える。
「ど、どうしたの……?」
機嫌が悪くなった事は察したが、何となく愛らしいその姿に、顔を赤くさせながら恐る恐る尋ねるアキト。
「今日はユリカさんの事は忘れてください。今あなたの前にいるのは誰なんですか?」
怒られる理由も、台詞の意味も、全然理解が出来なかった。
「そ、そうそう。俺、ルリちゃんにクリスマスプレゼントがあるんだ」
彼は完全に逃げを打つ事にした。どうにかして機嫌を取らねばという事は理解しているが、如何せんその理由が分からない。なら、その事を忘れさせるように会話の流れを持っていけば良いという事だ。
「はい、これ」
取り出したのは、手の平に収まるくらいの小さな箱。
「あ、あの……」
何となくルリの逡巡を察したアキトは、微笑みを浮かべながら促した。聞いた彼女は、ゴクリと一度喉を鳴らし、リボンを解いていく。
「これは……!」
紫のビロード。それを見れば、中身がなんであるのかすぐに察しがつく。
「うん、ルリちゃんあんまり身を飾る物とか持ってないでしょ? だから、たまにはこういうのもね」
彼の言葉を頭の端で適当に聞きながら、蓋を開けてみる。
「サイズは合ってると思うけど、ちょっとはめてごらん?」
アキトの言葉は、どこか現実的なもので、何となく彼女には気にいらない。しかし、それでも嬉しい事には変わりがなかった。我に返り、その指輪を手に取って指にはめてみる。
「ル、ルリちゃん?」
思わず声が出てしまうアキトだが、それも仕方ない事なのかもしれない。それは純粋な意味でのプレゼント。他の意味は一切含んでいない。だと言うのに、ルリがその指にはめてしまう事により、新たに一つの意味が発生してしまうのだから。
「どうしたんですか?」
もちろんルリもその事は知っていたのだが、敢えてとぼける。こうしてわざと意識させる事により、これからの夜の展開を期待しているのだ。
「そ、そこはちょっと……」
その台詞もやはりわざと。
「いいいい、意味が分かってるの?」
動揺で呂律が回らず。アキトは限りなく意識している。
「何の事です? アキトさん……駄目、ですか?」
「うん」
今もこうして、狭い家に似つかわしくない豪華な食事が並んでいるテーブルを挟んで、取り留めのない会話を繰り返している。
「そうですね。でも、私じゃ不満なんですか?」
「とんでもない。どっちかって言うとありがたいかな?」
気持ち潤んだ瞳で、彼の顔を覗き見る。今日は特別な夜。特別な何かを期待しながら……。
「へ……」
何の事は無い。アキトは、彼女と一緒にいる事を望んでいるなどとは一言も言っていない。ただ、ユリカが居ないおかげで、安息な時間が過ごせる事を喜んでいるだけだ。
前者は、人のおかずをもの欲しそうに見るほど子供ではないという、そのままの意味。そして、それに隠された裏の真意は、今の自分を一人の大人として見てくれという事。
だが、そんな意味深な台詞を言ったところで、アキトが気づこう筈もなかった。
何故自分だけを見てくれないのか。ルリは箸を止め、口を尖らせてアキトを上目遣いに見上げた。
「そ、そりゃルリちゃんだけど……」
ルリの言葉は、まるで不倫相手が家庭の事を話すのを快く思っていない人間の台詞そのままなのだから。
クリスマスらしく、赤い包装紙に緑のリボンで、シンプルに飾られている。電灯によってきらきらと反射する金色の縁取りが印象的だ。
「うん、開けてごらん」
見た目は綺麗だが、こんな時は、丁寧に包まれた包みがもどかしい。どうしても気が急いてしまうのだ。早く中身が見たいのに、しかしだからと言ってプレゼントの付属物たる包装を、ぞんざいに扱う事が出来ない。
ルリは、アキトの手前、慎重に慎重にと中身を開放していった。やがて中身が全て露わになった時――
やはりそこには指輪。あまり高価では無さそうだが、ハート型に形作られた瑠璃色のトルマリンがあしらわれた指輪だった。
夢うつつで、そこから目が離せない。予想だにしなかったプレゼントに、ルリの脳の機能は停止しきっていた。
「あっ……そうですね」
ただし、左薬指に。
「私がここにはめたらいけませんか?」
だが、聞き様によっては相当な台詞なためか、彼女の顔は知らず知らずの内に朱に染まる。図らずも、それがアキトにとって多大に心を乱させる結果となった。
ルリは、心の中でほくそえみながらも、尚も詰めの作業に掛かった。彼が苦手としているだろう上目遣いで、再び顔を窺う。
「あ、駄目な事無いけど……何ていうかそこに嵌めるのはもう少し大人になってからに……じゃなくて! ほら、その……なんだ……」
(あの時はこれ以上ないほどいい雰囲気だったのに……得てしてこういう時に邪魔が入るものなんですよね? こんな事がいったい何回あってチャンスを潰された事か)
「アキトー! 今帰ったよー!!」
しどろもどろになって、何を言っているのか分からなくなってきたアキト。そこに、ルリが駄目押しの一手を放とうした時だった。
「ちっ…」
ルリにとっては余計な闖入者そのもの。
「あっ、ユリカか? は、早かったじゃないか」
代わりに、アキトにとっては九死に一生な存在。誤魔化す意図が見え見えではあるが、彼はそれを知りつつも、わざとらしくユリカに声を掛けた。その際、ちらちらとルリの方に視線がいっているのが、何とも涙を誘う。
「屋台の方はどうしたの? 私ずっと探し回ってたんだよ?」
それは、もう一つのルリの保険。敢えてユリカに帰るという事実を教えない事によって探し回らせ、時間を大幅にロスさせるつもりだったのだ。
(ひょっとして葵さん……)
嫌な予感がした。彼の性格を考えれば、どうしてこうなってしまったのか、大体の予想はついてしまう。ルリはその確信を確かめる為、ユリカへと問うた。
「ユリカさん? 仕事の方はどうしたんですか?」
テヘッ…といった感じで舌を出すユリカ。そこからは、まるで悪びれた様子は窺えない。
(彼……何だか浮かばれませんね)
本来なら、これから彼はユリカと一緒に食事でも楽しんでいるはずだったのだ。なのに、その為にハッキングまでして無理矢理捏造した仕事を、彼女に押し付けられて残業してまでこなす。
(って、ちょっと待って? 確かあの仕事は……)
自分は、確実にユリカを釘付けにする為の細工をしていたはずだった。決済する者として、彼女が必ず居なければならないような。だからこそ、ジュンに呼び出させるといった事も可能であったのだが、彼女がこの場に居る事は、それに明らかに矛盾する。
(まさか……)
唐突に答えが閃いた。それにより、堪らない虚脱感と、一抹のジュンへのやるせなさが身を包む。
「ユリカさん?」
無邪気に返事を返してくるユリカだが、それがかえってルリには恐ろしく感じた。
「あの仕事って、確かユリカさんにしか処理できないはずの書類だったんじゃないんですか?」
答えなら既に分かっていた。しかし、それでも聞かずにはいられない。
「うん。でも、ジュン君が上の方に掛け合ってもう少し待って貰うって」
(や、やっぱり……。骨折り損……というレベルも超えてますね、これは)
ジュンは、ユリカの事となるとアキトよりも優柔不断になるのは周知の事実。今回もまた、それが遺憾なく発揮されたようだった。
(でも、同情する気は全くありませんよ? もう少しでも引き止めておいてくれたら、アキトさんともっと……)
そう。彼女からしたら、同情など論外だった。
「そう言えばルリちゃん? どうして私の仕事を知っているの?」
突然玄関の扉が開かれ、それと同時にけたたましいユリカの声が部屋に木霊する。
「あ、悪い。今日はあんまり客が来ないから早めに切り上げたんだ。ほんとは帰りたくなかったけど、ルリちゃんが……ね?」
果たしてその策略はうまくいった様ではある。
だが、そこに腑に落ちない事が一つ。
帰ってくる時間があまりに早すぎるのだ。予定では、仕事自体がまだ終わっていない筈である。どれほどユリカが有能な人物であろうと、少なくとも後一時間は掛かる筈だった。探し歩いた時間を考慮に入れたら、彼女は殆ど仕事をしていない計算となる。
「うん、それなら悪いと思ったんだけど、ジュンくんに任せてきちゃった」
本気で浮かばれない限りだった。
ルリは今一度ユリカへと問う。
「ん……なぁにー?」
悪意の無い笑顔。いったいどれだけの人がその犠牲になったのだろう。少なくとも、今回犠牲になった人物だけは特定できるのだが……。
ユリカの笑顔でのお願いに負けたばかりに、余計な仕事を増やし、レストランの代金も無駄にし、こんな日に残業し、挙句、意味も無く上司に謝りに行かなければいけなくなる。
何だか、想像しただけでも泣きたくなろう。
本来なら、わざわざ彼を使わなくとも出来た謀略なのだ。それを邪な気持ちもあったとは言え、彼の為に便宜を図ってやった事により計画が潰れてしまったのだから、むしろルリは被害者。世間一般にはそう見えなくとも、彼女の視点からはそういう事である。
「えっ?」
(ユリカさんって時々妙に鋭いんですよね、普段はボケボケしてくれてるくせに……。おかげでどのくらい冷や汗やら脂汗を流す事になったか。ひょっとして計算済み? ……って、流石にそんな訳はありませんか、あのユリカさんじゃ……)
「そ、それは……」
何気ないユリカの言葉に詰まるルリ。
「それはさっきユリカさんが言ってくれたじゃないですか。私のサインが無いと駄目なやつだって……」
短い時間で考えられる事など限られている。とっさに返した言い訳は、あまりにも稚拙で、あまりにも強引だった。普通であれば、まず嘘だと判別できる低レベルな言い訳。
「そうだっけ? うーん、確かに言ったかも……」
だが、ユリカは違った。あっさりとそれに引っ掛かる。お人よしなのか、それとも何も考えていないだけなのか。
「そうですよ。いい年してボケですか?」
実際なら、彼女にばれてしまったところで、さして困る問題が出てくるわけでもない。全ては過ぎた過去。恨まれようとも、無視さえしておけば実害は無いはずだった。
しかし、今という状況で露見してしまうとなると、少し話が違う。目の前には、ユリカの他にもう一人、アキトの姿。彼の前では純粋無垢な自分というものを常にアピールし続けている。
自己中心的なユリカ。策謀するメグミ。力技なリョーコ。そんな強いアクを持った人間が取り巻く中、彼の心には、自分はオアシスにも等しい存在となって映っているだろう。実際、よく三人から逃避してくる彼を匿うといった事もしばしばであった。
そんな特別な存在を、今無作為に放り出してしまう訳にはいかない。
どうであれ、今はチャンス。ルリはこれを機に、一気に攻勢に出る事にした。
「うぅ……ルリちゃん、何気にそんなひどい……」
カチャッ……
ルリの思考の中に、陶器がぶつかる音が混じり、彼女は再び現実へと舞い戻った。それと共に、視線の焦点を過去から今へと移っていく。
いや、より正確に言えば、過去を重ねた今。二重写しの世界。
ルリは、今だ昔の面影を引きずったままだった。
(何でかな……)
どうも今日に限っては自然と昔ばかりを思い出してしまう。毎日がドタバタ劇で、退屈だけはしなかった時。常にお互いを陥れながらも、どこか笑みの絶えなかった策略の日々。
(もうあの時は還らないのにね……)
未練を断ち切るように首を一度横に振る。
揺り籠は、もうこの世に存在しない。作り出せたとしても、それは歪なレプリカ。決して本物には遠く及ばないだろう。
(でも、私がやっている事こそ……)
その先は言葉にならなかった。形を作り、自分の意識の上に上らせたくなかった。だから彼女は、逃げる口実としてユリカの方へと意識を回す。
(……相変わらずですね)
目の前には、紅茶を楽しむ事すら忘れ、気だるげな時間を過ごすユリカ。アキトの到着が遅いせいか、自分がろくに相手をしてやっていないせいか、テーブルに頭を乗せ、年甲斐にも無く頬を膨らませていた。
「ユリカさん? 暇なら一度アキトさんにコミュニケを繋いでみます?」
込み上げる笑いを抑え、そう提案してみる。
これ以上に彼女が不貞腐れるのを見るのもいいかもしれないが、正直言って自分もアキトを待ちくたびれているところではあった。
「そうよね! じゃあ早速」
途端、無拍子で彼女は跳ね起きる。と同時に、自身のコミュニケへと手を伸ばした。
その間僅かコンマ数秒。あまりの早業に、流石のルリも言葉に言い詰まらざるを得ない。
(普段からこの機敏さを発揮してくれれば、みんなから悪し様に言われる事が無いでしょうに……)
「アキトー、何してるのー? もう待ちくたびれちゃったよー……」
ユリカのコミュニケにはアキトの姿があった。背景はおよそ食堂の厨房で、鍋から立ち上がる湯気やら、まな板の上の包丁で切られた余った食材が見て取れる。
鍋の中身は通信越しでは見えない。ただ、二つが同時に火にかけられている事だけは窺えた。まな板の上には、焼豚と菜っ葉。そして、一番に目を引くのは黄色い縮れた麺――
「あっ、ユリカか。どうしたんだ?」
「ねえ、今作ってるのって……ラーメン?」
鍋の方はスープと湯がく為の白湯。焼き豚と菜っ葉は具。最後によく見慣れた細長い麺とくれば、その答えしか導き出せないだろう。
「うん、ルリちゃんの頼みでさ。どうしても食べてみたかったんだって」
ルリの頼み。
彼はまだ修行中のため、本格的なラーメンを作る事が出来ない。出来たとしても、そこらの十派一絡げの店の方がよほど美味しいと感じるものにしかならないであろう。
アキトも、自分の分はしっかりと弁えていた。だからこそそれを彼女に告げ、他のメニューにしないかと打診はしたのだ。しかし、いつもは素直に引き下がるはずの彼女が、今日だけは強硬な姿勢に出た。
失敗してもいい。どんなに不味くともいい。どうしてもあなたが作ったラーメンが食べたい――と。
その時の顔が彼には忘れられなかった。何か大切なものでもそこに在るかのように胸に手を当て、潤んだ瞳を真っ直ぐに向けられる。どこかその表情は儚げで……。期待に打ち震え、嬉しそうな――それでいて何故か寂しそうにも感じる顔。
彼女の微笑みの意味は、アキトにはどんなものかは想像もつかなかった。その心を覗くにはあまりに複雑すぎ、表層すらも垣間見る事は許されない。
ただそれによって、作る事を渋る彼が突き動かされたのは事実である。
「あそこまで頼まれちゃ、断る事なんて出来ないしね」
「すみません」
回想の自分へと漏らした独白を聞きつけ、いかにも恐縮した様に詫びを入れるルリ。彼女自身、どうしてあれほど躍起になったのかよく分かっていない。
無性に心が疼いたのだ。掻き毟っても掻き毟っても、決して治まる事が無い疼き。尽きる事の無い喉の渇き。その訳が心に浮き上がる事も無く、ただ今すぐに欲しいと感じた。
しかし、理由の無い頼み事はただの我儘。だからこそ、彼女は萎縮する。
「でも、ルリちゃんって、ラーメンが好きだったっけ?」
アキトとしては、そこに笑いが零れてしまう。いつもは平気で無茶な事ばかりを押し付けてくるのに、今日に限って、こんな些細な事で縮こまっているのだから。
彼はそんなルリを気遣うように話を別の方へと持っていく。
「俺が作らない時、いつも食堂でラーメンだけは頼まなかったでしょ?ホウメイさんが作るのは凄く美味しいって言ってるのに」
サービスという事で、タダで出しても駄目だった。何のかんの理由をつけ、その都度その都度断っていた。それから、彼女はラーメンが好きではないと思うようになったのだが。
「ええ、少なくとも嫌いではありませんね」
そう言う彼女の面持ちは――
(まただ……)
アキトは彼女を見て、気付かれない程度に顔を歪めた。
そこに見えるのは自分の知らない表情。妙に大人びたようにも見える表情。いつもは様々な顔を自分に見せてくれるのに、今の彼女のその顔だけは、己の知らない誰かだった。
どこか少しだけルリが遠ざかっていく。自分から、そして現実から。先刻感じた儚げな雰囲気そのままに、移ろい消えていきそうな感。
(早く声を掛けないと……)
それは強迫観念だった。今繋ぎ止めておかないと、彼女は自分と同じ時を過ごした星野ルリでは無くなっていく。
馬鹿馬鹿しい考えではあるが、その考えこそが彼の頭から抜け出さない。
「ル――」
「ねぇねぇ! アキトが作ってるってどういう事? まだホウメイさんから任されてる物は無いんでしょ?」
しかし、意外にも彼女を繋ぎ止めたのはユリカであった。
とは言っても、そこにそのような意思が無いのは明白である。アキトの声を遮って声を掛けたのは、純粋に先の彼の言葉が引っ掛かっただけ。
「ああ…」
彼は虚を突かれたように、それでいてどこか安堵したかのように返事を返す。
「それなんだけど、料理の修行をルリちゃんに手伝ってもらってるんだ」
「どういう事?」
ホウメイの提案だった。
部分部分の仕事だけこなせても、一人前にはなれない。全体を通して流れるようにこなしてこそ、初めて料理人としては意味を持つ。
だからと言って、それの修行の場は、実際に客を相手にする仕事場は不向き。彼女にとっては、常に最高の料理を出す事を命題としている為、ある意味彼らを冒涜しているようにも思えてしまうのである。
故に、客ではない誰か。それには、生活を共にする、家族同然であるルリこそが最も相応しいのではないかというのがホウメイの弁。
そういう訳で、アキトが作る料理をいつもルリが一人で食べていたのだった。
もっとも、それは表向きの理由。実際には、ホウメイはルリの内なる気持ちをしっかりと理解した上で、彼女にアキトの料理を秘密裏に独り占めさせてやろうとしているだけである。
しかし、それもこの時までだった。今、その秘密が白日の下に晒され始める。
「お昼と晩、ルリちゃんに俺の作った料理を品評してもらってるんだよ」
「えぇぇ!? ルリちゃん、ずるぅぅぅぅい!」
彼女は、ルリと同じ時間に食堂にいるわけではなかったため、その事実を一切知らない。アキトが料理を作る事も。ルリがそれを試食する事も。
全ては初耳だった。
ただ、その様に仕組んだのは、ルリ自身とホウメイ。張本人は、言い逃れる為に弁解の言葉を口にする。
「ユリカさんでは多分試食係は無理でしょうから」
それは、本当の理由のカモフラージュにしか過ぎない。だが、口からでまかせを言った訳でもなかった。
経験に基づいた事実。
ユリカが試食係に不適任である事は、彼女にとってはとうに知れている事だったのである。
(あの人の場合、逆にアキトさんの足を引っ張りかねませんからね……)
思い出すは過去の出来事――
「さあ、食べてみて?」
四畳半。狭く、置き場のない荷物が所狭しと並べられているような部屋だった。壁や天井は、長い月日によって変色し、やや煤け。室内に唯一ある窓は、建て付けが悪いのか、僅かに斜めに歪み。
「今回は新しい食材も混ぜてみたから、味の保証は出来ないけどね?」
彼女は既に折畳式のテーブルを広げ、その前にかしこまって座っていた。気持ち、上気したような顔。どことなく浮き足立ったような、そわそわした様子。
(私も少しずつ料理の勉強はしているんですけどね?)
とは言っても、まだ一月や二月程度。たったそれだけの期間で本職の手伝いが出来るほど、その世界は単純なものではない。
(でもいずれは……)
試食係ではなく、チャルメラ吹きの役でもなく。
「熱いから気をつけてね」
決意を新たにしながらも、差し出された器を受け取るルリ。彼女の手は、何気にアキトのそれに重ねられていた。
「あの……そうやって持たれると、俺が手を離せないんだけど……」
しかして。その様な細かな感情にアキトが気付こう筈もなかった。彼は人の心の機微について深く考える事が無い。額面通りの事しか受け取ろうとしないのだ。
「これは気が付きませんでした」
そんな彼の事をよく知っているルリは、しれっと言葉を返すと、器を持ち替える。無論、内心ガッカリしながらではあるのだが。
「じゃあ延びない内に食べようか」
いつの間にやら自分の分も用意し、アキトもテーブルへと着いていた。
『頂きます』
その、いかにも貧乏にあえいでいるといった部屋の様子ではあるが、よくよく見ると一際異質な一角がある。
水場――台所とも表せないような、せめて洗顔目的程度のはずの流し。
そこには、大き目のガスコンロやら、家庭用ではまず使われないだろう特大の鍋、幾種類の包丁やら様々な小道具が、部屋の主の性癖に反映されたのか、測ったようにピッシリと整頓されて置かれていた。
その部屋の主――アキトは、今だ火に掛けられているままの鍋を背に、どんぶりを両手で捧げ持ち、ルリへと呼びかける。
「だからこそ私が味見するんですよ。では早速頂きましょうか」
それもそのはず。先程から彼女はこの場に居たのだが、手伝おうにも調理する場はどうしようもなく狭く、そして、己の持つ技術はあまりにもつたない。できる事と言ったら、せいぜい試食くらいしかない為、ようやく訪れた自分の仕事に喜びを隠せないのである。
それが分かっているからこそ、ルリはもどかしく思いながらも敢えて手を出さず、補佐程度の事に甘んじているのだ。
自分無くしてやっていけなくなると思うほど、彼の中で重要な位置を占める事こそが、誰にも口にしていないささやかな夢。
「ええ」
「って、ルリちゃん……?」
決して偶然ではない。ささやかな夢の延長だった。即ち、自分の心寄せている人物に触れていたいと。
彼女の頬が微かに染まる。指の先から伝わってくる温もりによって。己の気持ちが、触れている部分から彼へと伝わる事を願って。
「そうですね。確かに、延びてしまったら試食の意味もありませんから」
これから行われるのは、ほぼ毎週のように行われる試食会。アキトにとっても、ルリにとっても大切な時間。いつもの場所へと席に着き、いつものように顔を見合わせ、いつものように言葉を重ねる。
(時間帯的には、この時はいつも二人っきりだったんですよね。ユリカさんはちょうど仕事から帰宅中ですから。運が良ければそのまま色々とディスカッションが出来たんですけど、悪ければ……)
「どう、かな……」
一口スープをすすった後、アキトは緊張した面持ちでルリの顔を覗き込む。
「はぁ、やっぱりそうか……」
つまり、それは明らかな失敗。難しい顔をするという事は、少なくともいい結果とは言えないのだから。
「そうですね……」
上の空で呟き、思案に暮れる。
「全体的なバランスは良いですけど、ちょっと臭みが残ってますね。それさえ取れれば、今までの物よりも大分いい味ではあると思います」
問題はここから。結果が判れど、それをどう改善したら良いのかという話である。自分の落ち度が分かっていれば、最初から失敗作など出来ていない。こんな試食会など、最初から用を為さないのだ。
「うーん……ルリちゃんはどう思う?」
とりあえず目の前で同じく悩む彼女へと振ってみた。
「気の利いた事は言えませんが――」
あまりにも唐突だった。
(……今っ!)
アキトの意識がユリカに、ユリカの意識がアキトに行っている一瞬の隙を突き、自分の持つ器と、テーブルの反対側にある――即ちアキトの器を瞬時に入れ替える。
(今回も成功)
何も、がめつい心でそうした訳ではない。確かにアキトの側の器の方が量を多く盛られているが、彼はしっかりと自分の食べられる適量を量ってくれるため、そんな事をしたら逆に負荷が掛かってしまう。
「あっ、今日は間に合ったみたいね。私にも食べさせて?」
そう言ってユリカはアキトの横に座り込み、そこにあるどんぶりを両手で引き寄せる。さり気ない動作の為か、アキトは為すがまま。逆に、彼女へと場所を明渡そうと自身の体を横へずらしてさえいた。
(ふっ……かかりましたね?)
全てはユリカの為の布石だった。彼女は、必ずと言っていいほどアキトの側のどんぶりへと手を出すのだ。それが何となく面白くない。自分の特に気を掛ける人物の口にした物が己以外の異性にも触れてしまう事は、本来取るに足りない事だと分かってはいるのに、どうしても虫の居所が悪くなる。
(ユリカさんって、ホントに鈍いんですから……)
勝利を噛み締めながら、やや延び始めてしまったラーメンを一口。
「どうだ? ユリカ」
そんな彼女の奮闘とは別に、時間はそこにいる二人にも一様に流れては行く。
「うん。とってもおいしいよ?」
それはつまり、彼の中での信頼度の現れだった。
「お前って、いつもその台詞しか言わないのな……」
ユリカには聞こえないよう、こっそりと呟く。
「どうやったら――」
結果は彼の持つ舌でも分かっていた。料理人として、確かな舌は必須条件。しかし、それでもやはり実際他人の口に出してもらわないと落ち着かないのだ。
押し黙って彼女が器を顔から降ろす時を待つ。
その様は、まるで判決を待つ容疑者だった。今までの努力が報われるか、それとも全て水の泡と消えるか。
やがて。
判定する陪審員は、焦らすようにしてゆっくりとどんぶりをテーブルへと下ろす。徐々に現れる顔。彼女は、何やら難しい表情をしたまま、虚空を見つめていた。
そもそも、おいしさを言葉に表現できずに迷っているのであれば、眉をひそめる筈もない。不出来だと彼自身も認識しているからこそ、彼女の表情の意味を間違えよう筈もなかった。
彼女が今何も声を発さないのは、大方頭の中で言葉を選んでいるからなのだろう。
これは、彼女の務める事が出来る数少ない手伝いなのだ。ルリはその大役を全うすべく、己の中に真剣に答えを求めていく。どれだけアキトを待たせようとも、どれだけ麺が延びてしまおうとも、中途半端な答えだけは出す事を許されなかった。
しばらくの時の後――
「うん、俺もそう思うよ。只なー……」
自身の中に答えが見つからないのなら、外に求める。他人任せなのかもしれないが、彼はそこまで傲慢でもない。何より、己の事の様に懸命になってくれる少女の気持ちというものもあった。一人で悩もうものなら、きっと寂しげに俯いて言葉を無くしてしまう事だろう。
その甲斐もあったのか、ルリはほんのりと顔を上気させながら言葉を紡ぐ。
「ただいまー! 仕事終わったよー」
前触れもなく玄関の扉が開くと、現れ出でたのはユリカの顔。仕事帰りにも関わらず、全く疲れた様子も窺わせずにアキトへと愛想を振り撒く。
それを見たルリの目がスッと細まった。
言葉を中断されてしまった為ではない。アキトの役に立てそうだったものを無碍にされてしまった事でもない。獲物を狙う鷹の目。彼女の瞳は人知れず鋭い輝きを放っていた。
波打つ中の液体。飛び散る冷や汗。すべり転げる箸。
正に電光石火だった。
ついでに、彼が口に付けた物が欲しいという浅ましい心でそうした訳でもなかった。
狙いはもっと別である。この行動の意味は――
そして、気を良くしたのかユリカは、彼が今まで食べていた――実際にはルリの物であるが――器に口を付ける。
だからこそこっそりと入れ替え、己の気を済まさせるのが常だった。
その顔がやや赤らんで見えるのは、今だ器から立ち上がる湯気の為か。それとも、とっさの機転を働かせた事による興奮が冷めやらぬ為か……。
同じく麺を啜るユリカに、アキトは投げやりっぽい口調で問い掛けた。何気にやる気のなさげな声で……。先程ルリに問うた時には、緊張のあまり掠れていたというのに、今は何とも腑抜けている。
「……はぁ」
ユリカの舌はあまりにもあてにならない。彼が同居生活の中で学んだ、数多あるうちの一つである。
本来なら頭の中でのみ言っていれば良いものかもしれないが、それでは気が済まなかったのだ。この気だるげさを自身の身に留めておくには、あまりにも肥大化されすぎていた。
だからこそ、顔を背けての呟き。しかし、顔を背けたという事は、今度は別の人物へと向きやる事となる。
正面に座るルリ。
どうやら彼女もアキトと同じ感想を思い浮かべたようで、盛大に肩を落としているのが窺えた。
「そう……どうやったらあそこまで味音痴になれるのでしょうね、ユリカさんって」
懐古と現実の狭間。
いつしかルリの頭の中の台詞が、口からも漏れ出てしまっていた。ユリカの顔を、まるで珍獣と対峙した時のような表情でぼんやりと見据えながら。
「ル、ルリちゃん、私そんな酷く……」
こうも面と向かってきっぱり――更には感慨深げにしみじみと言われてしまえば、ユリカとしても言葉がない。一緒に食事した事がろくに無いルリのはずであるのに。ましてや、彼女自身は正常な味覚を有していると自負しているにも拘わらず。最早絶句以上の反応も出来ず、ただルリへと視線を送るしかなかった。
代わりに反応を返したのは、コミュニケの先に居たアキト。
「ねぇ、そいつってそんなに味覚酷いの?」
「えっ? ええ。食べられる物なら何でもおいしく感じるような人ですから」
(何故か紅茶についてはしっかりとしたものを持っているんですけどね?)
そこが不思議ではあった。紅茶の味については、そこらの人よりもよほど確かな味覚を持っているにも関わらず、そこから一歩でも抜け出ると、途端に珍妙な舌へと変わってしまうのだ。
何が彼女を狂わせたのか。何故に彼女は気付かないのか。
未だに解けぬ謎である。
「まあいいや。とりあえず出来たから、そっちに持ってくよ」
喋っている間にもしっかりと手だけは動いていた様で、アキトの持つお盆の上にはお馴染みの器が三つ、既に置かれていた。
正に出来たて。どんぶりから溢れ出る湯気によって、彼の顔はぼんやりと霞みがかっている。
「私の我儘なのに……どうもありがとうございます」
「気にしなくてもいいって。これも修行の一環だよ」
今日に限って何処までも下手に出るルリ。彼女のその様を見て、流石のアキトもきっちりと言い切った。
この程度の事で謝られては、実に歯痒い限りである。むしろ、歳相応の我儘らしく見え、彼にとっては微笑ましくて仕方が無いのだから。
「じゃあ、すぐに行くから待っててね?」
その言葉を合図に、プツと通信が閉じられる。ルリからの声を待たなかったのは、それ以上謝意の言葉を出させないようにする為。彼らしいとも、彼らしくないとも言える、不器用な機転だった。
ルリはその気遣いを察したのか、先程までアキトが映っていた辺りへと柔らかに微笑みかける。見えずとも、離れていようとも、自分の感謝の気持ちが彼へと届く事を願って。
やがて。静寂が訪れた。限りなく優しい時間が。限りなく穏やかな風の調べが。
彼女は目を瞑り、その流れへと身をゆだねる。
(きっと私は、あの人のこういう所に……)
しかし、世の中そう上手く行かないのが常である。ようやく復調を見せたのはこの人――
「ルリちゃん?私こう見えても結構グルメなんだよ?」
「…………自覚ゼロ…ですか」
| 後編のためにも秋代 紫苑さんにぜひ感想のメールを書きましょう♪ | 本編は「追憶の間」にて絶賛連載中! |
私は、紫苑という花の言葉の響きが大好きです。
風化し、色褪せた感じとでも言いましょうか。それは明らかに花言葉『追憶』から来ているでしょうが、私にパステルの色調を思い起こさせてくれます。
秋に代わる頃に咲く花、紫苑。
これが私のペンネーム兼ハンドルネームの由来だったり。(ちなみに、本名のアナグラム)