「じゃあ、すぐに行くから待っててね?」

 その言葉を合図に、プツと通信が閉じられる。ルリからの声を待たなかったのは、それ以上謝意の言葉を出させないようにするため。彼らしいとも、彼らしくないとも言える、不器用な機転だった。
 ルリはその気遣いを察したのか、先程までアキトが映っていた辺りへと柔らかに微笑みかける。見えずとも、離れていようとも、自分の感謝の気持ちが彼へと届くことを願って。
 やがて。静寂が訪れた。限りなく優しい時間が。限りなく穏やかな風の調べが。
 彼女は目を瞑り、その流れへと身をゆだねる。

(きっと私は、あの人のこういう所に……)
 



機動戦艦ナデシコ

〜アリウムの花束を〜

番外『紫苑の風景(後編)』

作 秋代 紫苑

 

「お、お待たせー」

 通信を切ってからほどなく。体感時間でも、せいぜい二、三分がいいところであろう。その部屋に居る女性たちが待ちに待ち望んでいた人物が、ようやく姿を現した。
 眩しい黄色に染められた制服の上に纏うエプロン。額に幾らか張り付いた、ボサボサ気味の髪。幾つかの器が乗っているお盆を両手に持っている男。即ち、アキトである。彼はよほど急いできたのか、汗を顎から滴らせながら玄関口で息をついていた。

「はぁ、はぁ……。ラーメン持ってきたよ……」
「そんなに急がれなくても……」
「延びちゃうといけないからね」

 到着を待ちわびていた人物の一人――ルリ。彼女は呆れ声を掛けながらもお盆を受け取り、アキトの身を自由なものとさせる。それにより、彼は拘束の無くなった手を胸に当て、必死になって空気を貪り……。
 さり気ない動作、さり気ない意思疎通だった。まるで長年生活を共にした家族そのままの、ごく自然な流れ。

「とりあえず、椅子にでも座って、休憩なされたら――」
「はい、アキト。これ……」

 その様を見て、有らん限りの対抗意識を燃やしたのはユリカである。彼女はキッとルリを睨んだあと、それと対照的な穏やかな笑みを繕い、アキトへとハンカチを渡した。要は、それで額の汗を拭ってくれということだ。

「ああ、悪いな、ユリカ」

 それは水面下の攻防だった。ユリカは、してやったりといった顔でルリに視線を送ると、彼女は悔しそうに舌打ちする。しかしその代わりにだろうか、何気にアキトヘピタリと寄り添って……。すると今度は逆に、余裕のあったはずのユリカの顔が赤く染まっていく。
 あまりにも見苦しすぎる戦い。当人たちしか熱くなれず、苦笑しか振り撒けないそれ。

「さ、アキトさん。テーブルの方に行きましょうか」
「あ……? ああ……」

 ただ、本来の中心人物であるアキトは、酸素を肺に取り込む事に夢中でまるで気がついていない。が、それこそが戦いを激化させる要因でもある。

「ちょっとルリちゃん!」
「どうかしましたか? 艦長」

 今にも飛び掛らんばかりのユリカと、余裕であしらうルリ。最終的に落ち着いたのは、その構図であった。明暗を分けたのは正に経験の差。ルリにとっては、この程度の修羅場など何度も経験しているのである。

 

「お客……少ないですね」
「うん。これじゃあ今日の上がりは全然期待できないな」
「折角看板娘の私がいるのにね?」

 それぞれ、ルリ、アキト、ユリカの言葉だった。
 今の時刻はおおよそ八時頃。屋台を出す人間にとっては、客足を期待できるようなそんな時間である。しかし、いつもは繁盛しているはずの今頃であるのに、今日に限っては見事に客が訪れることがない。それが彼らに溜息ともつかない言葉を吐き出させる要因であった。

「常連さんも何でか今日は顔を見せてくれないしなー」

 屋台を出した時点では、そこそこにいつものメンバーが舌鼓を打っていてくれたのだ。ところが時間が経つにつれ、目の前の椅子の空席が一つ増え、二つ増え……。
 理由は分からない。味はいつもどおり自信を持ったものを出しているつもりであるし、ユリカの言った、看板娘という言葉に少し引っ掛かる部分はあれど、そこらの屋台には似合わず確かに花もある。だと言うのに、客が来ないのはどういうことか。
 いや、実際にはそんな客足に揺らぎもあろう。しかし、それでも時間が余ればつい余計な事を考えてしまうのが人間というものである。誰も来ない理由をあれこれ思案し、愚痴を並べていく……。それは、極々当たり前とも言える思考の流れ。

「いくら何でも、こうもお客さんが来てくれないと、やることがないよねー?」

 つまり。
 全てを要約してしまえば、彼らは今限りなく暇を持て余しているということであった。

「今日はもう閉店にしてしまいませんか? 私寒くて……」

 季節柄、囲いが申し訳程度にあっても寒さは芯まで響き、暖を取る手段としてのラーメンは、もうこれ以上腹の中には入ってくれない。こうして立っているだけの現状は、ある意味拷問にも近いものがある。メンバーの中で一番体格が小さい――即ち、体温を奪われやすいルリは我慢がならず、ついには屋台の主へと打診を試みるが……。

「うん。でも、屋台って、出す日がまちまちだったら、常連客が減っていっちゃうからね。さすがに、それはちょっと避けたいかな」

 元手がマイナスから始まったこの商売、あらゆる手段を用いて客を呼び集める必要があった。お金にがめついと言われようと、生活するためには奇麗事など言っていられないのだ。……それに、ただでさえ居候が二人も居るのだから。

「ユリカは給料を幾らか入れてくれるけど、なんだかそれじゃ、ヒモみたいだしなー」

 ボソリ呟くアキト。
 ルリは学生をしているとしても、ユリカは連合宇宙軍の佐官として務めている。だからこそ彼女も生活費を払い、アキトもそれをしっかりと受け取っていたのだが、

「おまけにあいつの方が数倍も給料がいいし」

 もらった生活費の方が、自分で稼いだ額よりも大きいのには、あまりにも問題が有り過ぎるだろう。男としてのプライドから、後でまとめて返そうと計画を立てているのだが、このままでは一生借りたままになりかねない。多少はがめつくなろうが、それは仕方のないことだった。
 とは言え、自分の我儘の為に寒さで凍えているルリを放置しておくわけにはいかない。こうして手伝いに来てくれているだけでもありがたいというのに、どうして彼女に鞭打つような真似ができようか。
 だからアキトは、妥協案を提示することにした。

「ほら、ルリちゃん。とりあえずこれでも着て」

 言ってエプロンを脱ぐと、その下に着ていた厚手のトレーナーを彼女へと手渡す。

「今日は客が少ないってことは、逆に言えば俺一人でも充分大丈夫だからね。部屋に帰って、ゆっくり温まっててくれたら良いよ」
「で、でも……」

 ルリとすればそう言われて、ハイ分かりました――などと返せるわけもなかった。自分が温かくなれど、目の前の彼は寒さに凍える。どちらを選択しろと言われれば、まず自分が寒さを我慢する方を選ぶだろう。
 それにここで帰ってしまえば、自然アキトはユリカと二人きりになってしまうのだ。屋台を手伝う意味は、半分が彼女への牽制であるゆえ、是が非でも帰るという選択肢だけは避けたかった。

「そうよ。ここは私達だけで大丈夫だから、ね?」

 むやみやたらと『だけ』を強調して言うユリカ。いかにも邪魔者はとっとと帰れと言っているようにしか聞こえない響きだ。いや、正にそのつもりでこそ言っているのだろう。
 聞いたルリの腹積もりは、即座に決定された。

「やっぱりどんな寒かろうが、私はここに居ます。ね、ユリカさん?」

 同じように名前を強調して、彼女の顔を窺う。あなたの思い通りにはさせません――そんな鋭い眼光を込めて。
 しかしながら、身に染みる風だけは、今だ相変わらず吹き荒んでおり、それがルリに震えをもたらせた。視線をすぐさま己の組んだ腕に落とし、服の上からこすり、僅かながらでも暖を得ようと試みる。

「さあさあ、どっちにしても寒いことには変わりないだろ? 早くこれを着ないと」

 見かねたアキトは、先程まで着ていたトレーナーの襟口を広げると、ルリの頭からすっぽりと被せていく。ヒョコリと飛び出す頭。風にひらひら舞う両の袖。どこか愛らしいダルマへと、ルリは変身を遂げた。

「これで少しはマシになったんじゃない?」
「し、しかしそれじゃあ、アキトさんは……」

 今度は別の意味で彼女の顔が蒼くなっていく。彼が今着ているのは、肌着と長袖のシャツ、チョッキのみ。真冬の寒空でする格好としては、いささか心もとないことだろう。実際、彼の顔をよくよく見てみると、唇の色に赤さが感じられなかった。いかにもやせ我慢してますと言わんばかりに。

「もう私……帰りますから、これ……」

 今にも泣きそうなばかりのルリの声。彼女は慌ててトレーナーを脱ぎ捨てようとする――が、そこにアキト自身の手が掛かり、動きを阻害されてしまった。チラリと脱ぎかけの服から覗いている瞳で、ルリはその手を見つめる。そして、手から腕、腕から肩という様に体を辿っていくと、最後には顔まで行き着いた。
 彼は静かに首を振る。

「いつもタダ同然で働いてもらっているからね。このくらいはさせてよ」

 言いつつもルリの首筋へと両手を差し入れ、今だ服の中に収まっていた長い髪をふんわりと外気へ開放させた。いつものツインテールの髪が柔らかに宙を踊る。

「その服を着てくれなかったら、明日からここに手伝いに来ることは禁止。そうなったらルリちゃんのお小遣いも減っちゃうけど、良いの?」
「まあ、それは困りますけど……はぁ」

 もちろん良くない。良くないのであるが、根本的な間違いを犯している彼に、ルリは溜息を漏らさずにはいられなかった。
 別段小遣いなど必要ではない。目当ては、彼の手伝いそのものにあり、小遣いはただのおまけでしかないのだ。少しでも一緒に、少しでも彼の助けになれば――そんな想いから手伝いを買って出ているだけで、金銭的な要素が入る余地はどこにも存在しない。

「じゃあ、ちゃんとそれを着ててね?」

 二の句を告げられない彼女に、アキトは納得してくれたものと解釈して、そうまとめに入った。こうあっては、ルリとしても拒否の言葉はもう出せず、渋々彼の意向を受け入れるしかないだろう。

「……分かりました」

 

(そういえばユリカさんって、本当に対抗心が強いんですよね。私がアキトさんに贔屓されると、あの人もそれと同じか、それ以上の事をしてもらわないと気がすまないでしたから。まあ、概ねそれが墓穴を掘ることに繋がるのはあの人らしいとも言えますけど……)

 

「ねえ、アキト?」

 一段落ついたところで、背後から――つまりユリカからの声が掛かる。何事かと二人は振り返ってみると、そこには指を口に咥えて、寂しそうにしている彼女の姿。

「私も寒いなー」
「そうか。お前も帰った方がいいぞ?」

 何か物欲しげそうな顔で話し掛けるユリカであるが、しかしアキトは素っ気無い。いや、わざと素っ気無く答えた。彼女が何を期待して、自分に何をさせようとしているのか、本能で察知してしまったから。
 そもそも指を口に咥えている時点で、挙句、視線がどこを向いているかという時点で分かろうものではあったのだが……。

「私も寒いなー」

 尚も同じ台詞を吐き出してくるユリカ。狙いは間違いなく彼の着ているチョッキである。彼自身にとっては生命線とも言えるそれは、決してむやみやたらと手放してはならないと、身震いと悪寒が思い知らせてくれていた。

「気をつけて帰れよ。まだ遅くないって言っても、危ないことには変わりないからな」
「私も寒いなー」
「……ぐ」

 言葉も出ないとは、こういうことを言うのだろうか。声にならない声を発するのみで、頭の中ですら文句の言葉が思いついてくれない。
 アキトは俯いて肩を震わせる。決してそれが寒さによってでないことを、強く握られた拳によって主張しながら。

「私も寒いなー」
「……ソ、ソウカ……じゃあ俺のチョッキでも着てるか? 少しは温かくなるダロ?」

 その言葉は、聞く者に大根役者というものを想起させ……。なぜか言葉がすべて棒読み、気持ちの欠片すら込められていない。明らかに気が進んでいませんと、言外にぷんぷん匂わせる響きである。
 だが、それを聞いたユリカは構わずに反応を返した。

「えぇー? そんな、悪いよぉ」

(ユリカさん、どっちなんですか!)

 クネクネと身をくねらせ、遠慮深いことをアピールする彼女であるが、その試みは完全に失敗したと言ってもいいだろう。あれだけ物欲しげな様子を主張していれば、それは逆効果にしかならない。すべては今更なことであって、どんな対応を取ろうにも、アキトの中では怒りを増させる結果にしか繋がらないのだ。

「ま、まあ、そう言うなって。俺からの気持ちだ。遠慮なんかしないで受け取ってくれよ」

 気持ち――即ち、ありったけの呪詛をそのチョッキに込めつつ、ユリカへと差し渡す。ギリギリと歯軋りしているのは、寒さをこらえているためなのだろうか。
 どうであれ、ユリカは彼のその言葉を聞くなり、表面上の態度をあっさりひるがえした。

「うん! ありがとう。私の為に敢えて自分が寒い思いをするだなんて、やっぱりアキトって私の事が大事なんだよね?」

(……それ、本気で言ってます?)

 はしゃぎながら手渡されたチョッキを着込むユリカを、ルリは、この寒空に負けないほどの白々しい眼で眺めやる。せっかくの彼の気遣いによってもたらされた暖も、心の底から来る白けた寒さに、底冷えを禁じえない。

(ふっ……でも、今がチャンスですね)

 せかせかと襟口から頭を出そうとしているユリカを視野から追い出し、屋台の奥の方へと目を向けると、そこには、煮え立つ鍋の口から沸き上がる湯気の中で、必死に手を擦り合わせているアキトの姿があった。もう体裁を繕う気力すらないらしい。先程はあれほど強気なことを言ってやせ我慢して見せたというのに、そんな出来事など忘れてしまったかのような、あまりにも情けない姿、表情……。
 ルリは苦笑を浮かべながら、彼へと近寄っていった。

「アキトさん。もうやせ我慢はいいですから……これ、お返ししますよ」
「だだだ、駄目だって。ちゃんと約束しただろ?」

 これほどまでの状況に陥って、なおも強がりを言うアキト。本当は、彼女の好意を素直に受け入れたいところだろう。服に釘付けになった視線が、痛いほどそれを主張している。
 だがルリは、虚勢を張られ、そう言われることをあらかじめ予想していた。正確に言うならば、予想していて、あえてその言葉を言わせた。今の言葉は罠なのだ。これからする行動に、正当な理由を付け加えるための。彼女は王手をかけるべく、最後の一手を放つ。偽りの微笑みを浮かべながら。

「でも、状況が状況でしょう? 私はもう大丈夫ですから」
「どんなに言っても駄目だよ。例えルリちゃんがそれを脱いだって、俺は着ないからね」

(かかった!)

 勝利を確信したルリは、アキトには見えないよう、背中で拳を握り締める。

「しょうがないですね」
「えっ? 分かってくれたの?」

 いやにあっさりと引き下がった彼女に、アキトはたまらない違和感を感じた。
 違うのだ。いつもは強引とまで言える親切の押し売りを受けていた彼は、それを嬉しく思いながらも、断りの言葉に常々悩まされている。しかし今回に限っては、どういうわけか、のれんに腕押し。気持ちの面で、大いにたたらを踏まされてしまっていた。
 何かある。アキトは身構えるが――

「ほら、これなら寒くないでしょう?」

 ルリの取った行動は、アキトにとってはあまりにも意外なものだった。突然胸へと飛び込んできたと思ったら、そのまま背中に手を回し。挙句その手には、あるかどうかも良く分からない胸の膨らみを強調するように、決して離されまいとするように、彼女の精一杯の力がこもっていく。

「な、なにを……」

 何を思って抱きついてくるのか。そう言葉にしたかったのだが、声は吹き荒ぶ風の中へとかすれ、消えていき。代わりに喉から漏れ出でたのは、渇きを潤そうとする声――いや、音だった。グビリ……と、たった一音だけ。

「私はこの服を脱げませんからね。どうにかしてアキトさんに温かくしてもらおうと思ったら、こうやるしかないでしょう?」
「いや、確かにそうなんだけど……」

 確かに温かかった。今は、彼女のその気遣いによって、体がむしろ暑いくらいに火照っている。だが、彼女が主張するトレーナーによる効果などではなく、髪から漂ってくる微かな甘い香りと、服を通して伝わってくる柔らかな感触がそうさせるにすぎないのだ。いつもは己の娘のように扱い、意識野から一人の女性であることを追い出そうとしていたのだが、この時ばかりは、彼女が――そして自分がそうさせてくれない。

「ほ、ほら……もう俺、充分温かくなったから、ねっ? それにこれじゃあ、仕事ができないだろ?」
「どうせ仕事なんて、暇でやること無いんだからいいじゃ――」
「あぁぁぁぁぁ! ルリちゃん、なにやってるの!?」

 遠方から聞こえてくるにも関わらず、妙にはっきりと大きく聞こえてくる声。慌てて二人が振り返ってみると、そこにはやはりユリカの姿があった。彼女は、どうやら近くのトイレへと身だしなみを整えに行っていたようで、ずいぶん屋台を離れたところから全力疾走で駆け寄ってきている。

「何でルリちゃんが抱きついてるの? 離れなさぁい!」

 勢いをそのままに二人の間に手を差し入れ、強引に間を裂く。が、それに呼応するかのように、ルリの腕にもより一層の力が加わっていき。
 結果、力の均衡によって、アキトの背骨がぎしぎしと悲鳴を上げることとなった。

「アキトさんが寒そうだからっ、私はっ、こうして温めてあげてるんですっ!」
「だからって! 何で抱きつく必要があるのよっ!?」
「この人がっ、服を脱いじゃ駄目だってっ、言ったからですよ!」

 ルリが喋るたびに彼女の体も揺れ動き、ユリカが間を引き剥がそうとするたびに、ルリの腕が背中に食い込む。それがアキトには苦痛でならない。同じ痛みは持続するものではないが、振動を加えることによって新たな刺激が送られ、常時激痛の晒されてしまうのだから。

「……ど、どうでもいいから、早く離して……」

 息も絶え絶え。唾を飲み込むこともできず、口からはよだれがわずかに垂れ流れ。挙句、黒目は上下にぐるんぐるんと揺れ動く。意識を失う前兆。しかし、言い争うことに夢中な二人は、気づかない。

「どうやったらそんな話になるのよ!? それだったら私が服を上げるから、ルリちゃんはもう、家に帰ったらどう?」
「ふんっ! とてもさっき、服を誰かさんから奪い取った人の言葉とは思えませんね!」
「何よ! あれはアキトが寒がってる私を思ってくれたんだよ?」
「本気でそれを――」
「アキトは私のことが――」

 寒空の中、二人の声は留まることを知らなかった。冬特有の澄みきった空気は、雑音を交えることなく全方向へと彼女たちの声を遠くまで飛ばしていき。雑多な喧騒によってにぎわう繁華街の端であるはずのここは、なぜか二人の罵声だけが支配する。
 それが、周りを行き交う人たちの視線を一手に集めることとなり――

「これじゃあ、客も来ないわけだよな……」

 本日三度目の痴話喧嘩。
 近くを通りかかったカップルが、こちらのほうを見て、クスクスと笑っているのを目に焼き付けながら、アキトは皮一枚で繋がっていた意識を一息に遠のかせていった。

 

(あれからというもの、どんなに熱くなってもアキトさんから目を離さないように気をつけておけば、自然有利になるってことが分かったのよね)

 痛い教訓だった。その日から丸々一週間、手伝いを頑なに拒絶されてしまったことは、今でもはっきりと記憶に残っている。だが、その記憶と教訓は、過去へと戻った今、何よりも換えがたい財産として存在を輝かせてくれるだろう。
 一度は、ハンデ抜きで勝利を掴むこともできた。そして、今は在りえないはずの記憶というアドバンテージまで存在する。負ける要素は何もない。欠片も。微塵にも。自分の描く未来への道筋は、はっきりと光を照らされ、踏み外すことなく主張してくれる。

(そういえばあの後って、確か――)

「ルリちゃん! いつまでアキトに抱きついてるつもりなの!?」

 頭の外からの声。間近で爆発を起こしたような激しい振動が、耳を震わす。それによって、再び遠い記憶の中へと旅立とうとしていた意識を引き戻された。かすかに顔をしかめ、視線を横へとずらす。

「ほら、いいかげん離れなさいって!」

 どうやら、ユリカが怒鳴りつけているにも関わらず、過去へと想いを馳せていたらしい。図太いものだ――そう苦笑する。彼女の怒声にすら耳に入ってこないほど浸るなんて、よほどの神経の持ち主では成し得ぬだろう。いや、こうして怒鳴られているのも他人事のように考えている時点で、相当なもの。
 それとは裏腹に、誇らしい気持ちもどこかしらに感じていた。彼女の声量すら邪魔できないほど大切な記憶。誰にも侵すことのできない神聖な領域。その中にユリカ自身が含まれているのは少し癪ではあったが……。

「もう……こうなったら、最後の手段に出るからね!?」

 言うとユリカは、今だ疲れたまま膝に手を当てて息をついているアキトと、お盆を持ったままそれにピタリと身をくっ付けている自分の間に手を差し挟んできた。

(これじゃあ、まるであの時の再現ね? つまり私はどうすればいいかというと……)

 身を離す。速やかにアキトから。ここで力ずくで彼にへばりついたところで、迷惑に思われることは、経験済み。するりとユリカの力場から立ち去り、手元のラーメンをテーブルへと運んでいく。

「へっ……わっ、と……」

 その行動によって、面食らったのはユリカである。突然負荷の無くなった抵抗のために、前へとつんのめり、

「うわぁぁ!」
「きゃあ!」

 アキトを引きずり、もろとも床へと倒れこんだ。引き倒した側であるユリカは、当然真っ先に床へ。そして、引き倒された側であるアキトは、彼女の体に覆い被さる。足は絡まり、手は組み伏せるように顔の両脇。構図としては、今まさに襲い掛からんとする男と、恥ずかしげに受ける女であった。
 ユリカの顔が、場違いにも何かを期待し、朱に染まる。

「わわわ、悪い、ユリカ! わざとじゃなくて……」
「う、うん……」
「なっ! 二人とも、何やってるんですか!」

 今度こそ余裕が無くなったのはルリのほうだった。突然の声に振り向くと、目の前に繰り広げられるのは、情事ともつかぬ、理解不能な光景。慌ててお盆をテーブルへと置き捨てると、二人の元まで走って戻り、硬直したままの彼らを引き離すべく、アキトの体を掴み、投げ飛ばした。加減はない。少しでも二人の距離を引き離そうと、力の限りに。
 そこには、先ほど再確認したばかりの教訓など、どこにもなく……。
 ガツッ!!

「うがぁぁっ! あ、頭がぁぁぁ……」
「だ、大丈夫ですか!」
「ア、アキト!」

 部屋の角に後頭部をぶつけ、そこを両手で押さえて悶絶するアキト。ただでさえ尋常ではないルリの腕力だ。それを身をもって知っているはずの彼であったが、その力の限界に疑問を感じざるを得ないほど、頭の痛みは激しく、そして響き渡った。こらえきれない涙が、端から一滴零れ落ちる。

「ひ、ひどいよ、ルリちゃん……頭が陥没するくらい凄かったよ、今のは」
「……ご、ごめんなさい」

 本当に凹んでないか、その部分をさすって確認しつつ起き上がり、非難の目を向ける。とは言え、ほとんど事故のようなもので、一概にも彼女ばかりを責めるわけにもいかなかった。引き倒したユリカが悪い。どかなかった自分が悪い。投げ飛ばしたルリが悪い。全員が全員とも非難されるべきところがあるのだから。
 代わりに責め句を出したのは、原因を作り出したユリカだった。ただしその内容は、彼のことを大事に想っているのか、彼の中での自分の印象を大事に想っているのか分からない、微妙さがあったのだが。

「どうしてそういうことするの、ルリちゃん! もう少しくらいアキトに気を使わないと……。いつも色々と大変な思いをしてるんだから」

 大変な思いをさせているのは誰だ? そう周りの二人の視線が白々しくも彼女へ突き刺さるが、幸いにだろうか、気づく様子はない。
 アキトは頭から手を離し、溜息を一度つく。今更なことだ。もうこれ以上ツッコミを入れたところでどうしようもないだろう。やがて、彼女の言動について考えるのはもう止めると、おもむろにテーブルを指差す。

「まぁまぁ……もうそのことはいいから、ラーメンのほう、食べようよ。俺は全然気にしてないからさ」

 どこか情けない声音を持つ、締めの言葉だった。
 そして。
 そのまま時は流れ――
 ようやく三人はテーブルへと着いていた。一番玄関に近い下座にはアキトが。その両脇には、等分に配置されていたにも関わらず、なぜか場所がアキト寄りにずれている椅子へ、ユリカとルリが座る。
 あまりにも不自然極まりない構図だった。テーブルの半分ががら空きになるくらいの、目に見えた違和感。

「……ねぇ、何でこっちに寄ってくるの?」

 流石のアキトも気づかざるを得ない。どんな思惑が働いているかはさて置き、そこには何かの意思が込められていることを。半眼にさせ、特に自身に近い、ユリカへと問う。

「いいじゃない。アキトもこっちのほうが嬉しいに決まってるよ」
「お、おまえ、決まってるって……勝手にそんなもん、決めつけるなよ!」

 その様を間近で見ていたルリは、場違いにも柔らかな笑みを浮かべ、スッと目を伏せた。

(何だか……そう、これもあの時のままですよね)

 己の記憶の中でしか存在しない出来事。もう同じ道を辿ることのできなくなった未来。そこでは、毎日のように見られた光景だった。ちゃぶ台を中心に繰り広げられる、一人の男の奪い合い。笑顔を絶やすことのなく強引さを発揮するユリカと、困った顔を浮かべつつも腰が引けているアキト、そして――自分。
 何もかもが懐かしい。今も目を瞑ると、そこは無機質な戦艦などではなく、木の匂いの中――あの安アパートの中へと身を置いているかのような錯覚を覚えてしまう。壁の汚れ。畳みについた焦げ跡。梁にある幾つもの画鋲の跡。しっかりと嵌まらない窓枠。当時は快く思っていなかったそれらが、妙に愛着を持って心へと浮かび、消え、また現れる。
 思い出とは常に美化され続けるものだそうだ。確かにそう思う。今も還らぬあの時を、悲しいくらいに、想い、馳せているのだから。一匙の笑みを溶かしきった涙。今自分の心は、そんなものによって埋め尽くされている。あの時のままを再現――それは、悲しみをも生み出してしまうが、確かに心地よさも感じさせてくれた。
 惜しむらくは、完全に同じとはいかないこと。当然だろう。当時と今では、すべてのおいて違うことだらけ。同じものと言えば、実のところたった一つしか存在しない。
 自分。
 これだけは、変わってないと自信を持って言える。今この時に限り、自分の心はあの時へと置いたまま。成長せずに、未来のある一点へと置き忘れたままになっているのだから。

(でも、同時にそれは――)

 この世界をも否定することになる。すべてを知っているはずなのに、己の知らない世界。アキトを中心とした世界。自分が本来肯定したいはずである世界にも関わらず。
 かぶりを振る。ゆっくりと。未練がましく、ゆっくりと。今だ纏わりつく過去の映像を、一つ一つ確かめるように、こそげ落としていく。

「アキトさん?」
「――だから違うって……ん? ルリちゃん?」
「そろそろ頂きましょうか。何だか色々と時間を取られてしまって、ラーメンが延びてしまいそうですし……」

 最後に残ったものは、その湯気の量を減らしつつある、目の前の大きな器。過去でも、一際なじみの深かったそれは、実物として出されると、振り払いようもなく……。

「あっ、そうだな、話は後にして先に食べちゃおうか。あんまりおいしくないのが、どんどん酷くなるといけないしね」

 言って、箸を手に取り、二人も習う。
 と。

「あ、あれ? アキトのラーメン、何だか少なくない?」
「ほんとですね。どうされたんですか?」

 一挙一動を見守っていた二人は、彼の動作――箸を器へと伸ばそうとしている動作もつぶさに観察し、ついでにそこにある不自然なものに気がついた。
 最後にコミュニケで見た映像では、どの器にも均等に量が量られ、盛られていたのだ。なのに今では、彼の分だけ三分の二程度まで減っている。まさかあれほど急いできたというのに、途中でつまみ食いしたはずもない。そんなことをするような人物ではないとは、彼女たちも重々承知していた。だからこそ、限りなく不自然。

「ああ、それなんだけど……さっき、メグミちゃんとリョーコちゃんに会ってね」
「ま……まさか、アキトさん……」

 震えている声音。そこから垣間見える動揺、怒り。

「うん。食べさせてくれって言ったから、俺の分を少し上げたんだよ」

 ベキリ……
 二箇所で、同時に乾いた音が鳴り響いた。アキトが何事かと周囲を巡らせると、そこには、箸を片手で二つに折った女性たちの姿。

(あの人たちは、本当に油断も隙もありませんね……。あの時だって……)

 そう。先ほどユリカによって中断された回想には、まだ続きがあったのだ。燻る怒気を抑えつつも、そこに再び意識を持っていく。

 

「大丈夫ですか、アキトさん!」
「アキト、返事して! ねぇ!」

 地べたに力なく寝転ぶ青年と、それを囲うようにして懸命に体を揺する、二人の女性。彼女たちは今、繁華街を行き交う人々の注目を一身に浴びているところだった。誰も彼もが足を止め、興味深げに、それでいて直接の係わり合いにならないよう、一定の距離を保ったまま、つぶさに様子を窺っている。
 中でも視線を受けていたのは、呼びかけられている青年――アキトだった。彼は、冬の猛烈な寒風の中でも、わずか肌着とTシャツだけという薄着で、挙句、限りなく零度に近いと思われるアスファルトへと身を横たえている。周りの女性たちの慌てようからしても、彼の肌の蒼さからしても、冬山の遭難者という言葉を思い起こさずにはいられないのだ。
 だが、それでも誰一人として助けに行かず、救急車も呼んでくれないのには訳がある。アキトがそういう状況に陥った原因が、下世話でどうしようもない類いのものだったから。痴話喧嘩。その果てに彼が気絶したとあっては、誰も同情することなどないであろう。実際、切羽詰った様子の女性二人とは対照的に、笑いを漏らしている人すらいた。
 そんな中、中心にいる女性たちは、尚も必死の形相で呼びかけていく。

「早く起きないと風邪をひきますよ? いいんですか?」
「そうよ。それに屋台の方はどうするのよ? 今日だって帰らずに続けるって言ったんでしょう?」
「ほら……背中が冷たいでしょう? 今、服を着せてあげますから」

 そう言うとルリは、自ら着せてもらった服を脱ごうとする。しかしその動作は、思うままにはならなかった。裾を掴んで一息に脱ごうとするが、己の体に固定されたまま。どうしたことかと、その部分へと目を向ける。
 阻んだのはユリカだった。彼女は、アキトに視線を向けたまま、さり気なくルリの着るトレーナーの端を掴み。更には、空いた片方の手で、自分の着る服を四苦八苦して脱ごうとしていた。

「そうよ。わ、た、し、がっ! 着せてあげるからね?」

 その言葉にピクリと来るルリではあったが、青筋を浮かべるのみで何とか自制をし、再びアキトに向けて呼びかける。いや、呼びかけるふりをして、隣りの女性に毒を送った。

「アキトさんが寝込みでもしたら、どうなると思っているんですか。ユリカさんのおじや……食べさせられちゃいますよ?」
「そうよ。私が食べさせてあげるんだから――って、ルリちゃん?」

 ギリギリ……。そんな錆びついた音が聞こえてきそうなほど、ユリカはゆっくりと、段階的に横へと顔を向けた。
 そこに見えたのは、唇の端を皮肉げに持ち上げ、目線だけを向けてくるルリの姿。

「ねえ、ルリちゃん? どういうこと?」
「ふっ、そんなことも分からないんですか? アキトさん、いつも私に愚痴をこぼしてるんですよ。ユリカさんの手料理を食べさせられて、困るって」

 達観の笑みを浮かべなおすと、やれやれと首を振る。そんなことも知らなかったんですか? 動作に、その言葉を含ませながら。

「私に……喧嘩を売ってるの?」
「気のせいですよ。私は事実を言っただけですから」
「そう? そういえば、私もアキトから、ルリちゃんがネットで変なものばっかり拾ってきて困るって、愚痴られたことがあった気がするなぁ」

 その言葉が合図だった。
 ジャリッ……!!
 アスファルトに砂が擦れる音を盛大に響かせ、両者が同時に立ち上がる。そして、二人の間を駆け抜けていく一陣の風。お互いの仲を割かんとばかりに、冷たく、鋭く、切りつけるように。

「今日という今日は、決着をつけたほうが良さそうですね」
「そうだね。私とアキトの仲を邪魔しようとする子には、しっかりとお灸を据えないといけないし……」

 二人ともが、これ以上もないほどすがすがしい笑顔を互いに送る。せめて地獄への餞別にどうか、と。拳や額、あらゆるところに浮き出た青筋が、それを雄弁に語っていた。

「ふっ……ここは場所が悪いですし、あちらの公園へ行きませんか?」

 ルリはチラリと周りを一瞥し、提案する。
 ようやく気がついたが、周囲には人だかりの山ができていた。さすがにこれほどまでに注目を浴びていては、やりにくい事この上ないだろう。頭に血が上っていて、視線自体は気になることがないが、修羅場を進んで見せたいとまでは思わない。
 そして、それはもう一人の女性も同じ。

「いいわよ。そこを自分の死に場所に選ぼうってことね?」
「何を言ってるんですか。それはこっちの台詞ですよ」

 含み笑いを忍ばせつつも、二人が同時に歩き出す。互いを警戒してか、適度な距離を保ちながら。やがて、そのまま人垣の手前二メートルほどまで来たとき――
 ザワッ!!
 壁が一瞬にして左右に分かたれた。まるで花道の如く、綺麗に通路が形作られる。彼女らが放つ瘴気のなせるわざか、厄介ごとに巻き込まれたくないためか、誰しもが二人に目を付けられないようにと、視界から逃げ出したのだ。
 一番外側にいる人間などは、必死に後ずさろうとするが、目の前の空間を開けたことによって過密になった人ごみの中では、それもままならず、むしろ逆効果。今最も注目を浴びたくない人物から、不快感を露わにした視線を向けられた。

(人を化け物みたいに……面と向かってそこまで避けようとしなくてもいいでしょう?)

 しかし、今はそれについて言及している暇はない。一刻も早く、自分と同じくいきり立っている隣りの女性に、鉄槌を食らわせてやりたかった。それは多分、彼女も思っていることだろう。だから、目で合図を送る。

「分かってるわよ?」

 その言葉により、人垣にうがたれた道へと足を踏み出す――が。

「おい。あんたら、良いのかい?」

 人の群れの一番外側に位置しているところ――自分たちがこれから向かう先である正面から声がした。誰が言ったのかなどと、わざわざ探す手間は掛からない。なぜなら、その男の周りの人間たちは、こぞって彼から距離を取ったため、自然、浮き彫りされる形になったからだ。
 ルリとユリカは、苦もなく発言の主を見つけ出すと、怪訝に見つめる。彼の言葉の内容についても、そう。ただ、どうも顔に覚えがあった。それほど親しくはないが、確かに何度か会っているであろう、そんな間柄。霞んでいる記憶の中を検索しにかかる。

「ん? ああ……確か、いつも来てくださる……」

 つまりは、自分たちの屋台の常連だった。客――なぜだか、その言葉にかすかに引っ掛かりを覚え、二人は剣呑な雰囲気を気持ち消し去りつつ、彼の顔を見やる。
 そこで再び、男の声。

「あんたらが喧嘩するのはいつものことかもしれないが、今回ばっかりはまずいと思うぞ? ほら。あっちを見てみろよ」

 同じ仕草で二人は振り返る。と、そこには――

「ア……アキトさん」
「アキト……」

 いや、それだけならまだいい。本来なら、頭に血が上って、忘れてしまったことを散々悔いてしまうところなのだが、今はあまり気にならない。そこには、もっと問題視されるべきものが存在していたのだから。前者が完全に掻き消されてしまうほど、極めて心を揺さぶってくれるものを、彼のそばで見つけてしまった。

「な、なんでメグちゃんとリョーコちゃんが……」

 アキトを抱き起こして、親身に介抱している。意識は完全に取り戻していないようだが、かえってそれが仇となり、抱きつくようにもたれかかっていて。
 本来自分が収まるはずだった役。隣りの女性と競い合っていたはずの役。それなのに、突然現れた第三者によって、あっさりと奪われてしまった。残るのは、ただ呆然とした思いだけ。

「早く行ったほうがいいんじゃないかい? いいとこ取られるどころか、今のあんたたち、マイナスだよ?」

 かすれるような男の声。いや、彼自身ははっきりと口にしたのだろう。己の意識が飛んでいたせいで、言葉のすべてを拾えなかっただけだ。
 それでもルリとユリカは、何とか彼の言葉を理解した。これから取るべき自分の行動も。

「ルリちゃん。一対三と、二対二……どっちがいい?」
「皆まで言わなくてもいいですよ。決まっているでしょう?」

 互いが頷きあう。そして、かすかな笑み。裏切るなという釘をさす意味合いと、敵を排除したらあっさりと裏切ってやろうという腹黒い思惑を込めて。

 

(普段はアキトさんの奪い合いでいがみ合ってはいるけど、こんなときばっかり気が合うんですよね、良くも悪くも……。いえ、良いことなんか一つも無かったような気がするのは思い過ごしでしょうか。その都度アキトさんに、おののいて引かれてしまうんですからね……)

 

 普段と変わらぬ業務だった。アキトは客に背を向いて注文されたラーメンを作り、ルリは洗い物を手早く片付け、ユリカは客の接待をする。何一つ、いつもと変わらぬ光景。毎日繰り返されてきたはずの光景。
 しかしその慣れた作業の中で、アキトは言葉に言い表せない焦燥に駆られていた。暑くもないのに、背中には汗が流れ、ラーメンを湯がく手はわずかに震え……。理由は多分、己の周りに流れている空気だとは察しがついている。冬特有の透明感のある張り詰めた空気ではなく、もっと異質な、どこか澱みのあるそれは、身に纏う薄い服も通り越して、直に首筋から背中までを愛撫してくれ――

「もうそろそろ時間じゃないですか? 早く上げないと、麺が駄目になってしまうと思うんですけど……」
「えっ?」

 唐突だった。アキトの凍りつきそうになっていた思考を、ルリの何気ない言葉が一息に砕く。それによって、彼はビクリと身を震わせ、正気を取り戻すが、湯がいていたはずの麺は鍋の中へと落ちていき。

「ちょっ……ま、待てよ」

 激しく対流を繰り返している湯の中では、まとまって存在していることなどできるわけもない。慌ててすくい上げようとしても、すべてがバラバラに散らばってしまったあと。健気な努力はすべて無駄へと消えていった。
 諦めの篭もったか細い溜息が、ルリの耳へと入る。

(いつもは、暑苦しいまでに仕事熱心なのに)

 仕事に身が入っていない。鍋から目を離さない様子は、一見集中しているようにも見えるが、何かに怯えたように体を強張らせているだけと言ったほうが、しっくりと来るだろう。怖くて周りに目を向けられず、自分の殻へと閉じ篭もる。そんな言葉のままに。

「どうしたんですか? 浮かない顔をしてますけど……」
「いや、大したことじゃないんだ」
「でも……。やっぱり寒いのでしたら、服を返しますよ? 今はもう大丈夫ですから」

 微妙に引きつった顔。あまり血行に行き届いていない肌の色。そこから結論付けるが、自身の思い込みがあったことは否めない。なぜなら彼は、自分が寄った分だけ、同じく後ろへと距離を取ろうしているのだから。
 その部分を都合のいいように無視し、返事を待つ。

「言っただろ? 着る気はないって。それに、こうして客が来て、仕事をしてるんだから、今はそんなに寒くはなくなったよ」

 ルリ――そしてアキトは、チラリと後ろを見やる。
 まず映ったのは、ユリカの姿だった。いつも通りの笑顔。彼女は、客へと水を振舞うため、水差しを差し向けている。

「あれっ? ……今日は真面目に仕事をやってるんだな」

 珍しいこともあるものだ。言い知れぬ空気のことも忘れ、そんなニュアンスでアキトは言葉をこぼす。本来であれば、客とのおしゃべりに興じていたり、お世辞を言われ照れていたり……。顧客を増やす要因にはなれど、決して仕事自体を楽にしてくれる彼女ではないのだ。
 ただ、訝しがるアキトとは対照的に、ルリは納得の笑みを浮かべる。

(何か行動を起こすつもりですね?)

 行動に裏があることは、重々に承知していた。先ほど、お互いに目で合図したばかりだ。同盟を組もう――と。それを考えれば、客が誰かを考えれば、これから間違いなく何かをやらかしてくれるだろうことは察しがつく。
 ルリは期待を込めてユリカへ視線を送った。
 直後。
 その視線を受けたかのように、ユリカは目だけをルリへ向ける。顔には、注視していないと分からないくらいの薄い笑い。普段アキトに見せるものでもなく、ましてや客に見せる類いでもない、それ。
 二人は同時に頷き――

「あっ! 手が滑っちゃったぁ……」
「つっ、冷た……! な、何するんですか!」
「てっ、てめえ!」

 客――メグミとリョーコは、ユリカと会話をしているふりをしながら今までアキトヘと向けていた意識を、瞬時に自分の膝元へと向け、椅子を蹴倒し、後ろへと飛び退った。

「艦長! 今わざとやりませんでしたか?」
「てめえのせいで服が濡れちまったじゃねーかよ! どういうつもりでい!」

 二人の穿くズボンとスカートが、本来の色よりも色濃く染まり、原因たるユリカへ言葉を吐き捨てながら、その部分を手でペシペシと振り払う。彼女たちの手は、電灯の明かりを受け、艶やかに光っていて……。
 つまり。コップへと注ぐはずの水が、大きくコースを外れ、彼女たちの膝元へと行ってしまったのだ。

「ごめんごめん。ちょっと失敗しちゃっただけだから。悪気はないから許してよね? 同僚のよしみってことで……」

 許せるはずもない。明らかにわざとだ。悪気がない、同僚のよしみ――そんな言葉を出されては、逆に疑ってくれといっているようなもの。
 二人の客は、疑いを通り越して確信すらし、カウンターまで一息に詰め寄る。

「アキトさんに近寄らせたくないからって、ひどすぎます! 私たちはお客としてここに来ているんですよ?」
「そうだ。オレたちはただ、天河のラーメンを食べに来ただけだぜ? 何でこんなことされなくちゃいけねーんだよ!」
「まあまあ、そんなに怒らずとも……」

 が、そこに水を差したのはルリだった。二つのおしぼりを持ち――なぜか一番端だけをつまむようにしていた――、にこやかに仲裁に入る。
 とは言え、目線は微妙に二人からずれていて……。彼女が見ていた先はユリカ。先ほどユリカ自身がそうしたように薄く笑い、目が合うと、かすかに頷く。

「こんな寒い日ですし、そのままでは冷たいでしょう? タオルをお湯で濡らしたものですけど、良かったら使ってください」
「ありがとう、ルリちゃん。誰かさんと違って気が利くわよね」

 ちらりとユリカを見やる。

「ほんとだぜ……。いい加減天河も、一人解雇したほうが良いんじゃねーか?」

 同じくリョーコも目線だけをユリカへ。

「どうしたの? 二人とも、私なんか見て……」

 しかしユリカは動じた様子もないようだった。相も変わらず、能天気な笑みを浮かべたまま。
 決して皮肉を理解できなかった訳ではないだろう。そこまで彼女は鈍くない。理解した上で笑っているのだ。おかしい。何かがおかしい。その理由も分からず、メグミとリョーコは後ずさる。
 そこで再びルリからの声。

「ほら、早く手を出してくださらないと……」
「ええ……」
「ああ……」

 目はユリカに釘付けられたまま。条件反射と言ってもいいのだろう、上の空で返事を返し、おしぼりを受け取るため、促されるままに手を差し出した。

「熱いから気をつけてくださいね?」

 そう言うとルリは、持っていたおしぼりを、二人の手の上へぽとりと落とす。
 刹那――

「あっつぅぅぅぅぅぅい!」
「うがぁぁぁぁぁぁぁ!」

 メグミとリョーコは、突然大声で叫ぶと、反射的に掴んだおしぼりを、地面へと叩きつけるように捨てやった。
 びちゃり。おしぼりにしては、妙に水気を含んだ音が辺りに響く。

「ほら。だから熱いから気をつけてくださいって言ったじゃないですか……」

 ハアハアとうずくまりながら、己の手を抱えて息をつく二人に、ルリはしれっと投げかけた。ユリカ同様、悪びれた様子はまったく窺い知れず。むしろ、その見下ろすような瞳は、勝者は誰か思い知らせようと、悦に歪んですらいる。

「き、きさまらぁぁぁ……!」
「あなたも……だったのね……」

 渡したものは、アキトが先刻麺を湯がいていた鍋のお湯が充分に染み込んだタオルだった。しかも、絞って水分を飛ばすこともしていない。ぽたぽたと滴が垂れたままのそれを、さほど時間も置かず彼女たちの手の平へ乗せ……。
 即ち、当事者からすれば、熱湯の中に無理やり手を差し入れられたようなものだ。覚悟もなく。唐突に。
 あまりの衝撃に、二人はし返すどころか、うめくことしかできない。

「は……早くラーメンを作らないと……な……」

 何も見ていない。何も聞いていない。
 つい先ほどまで感じていた、言いようのない緊迫した空気の具現化すべて。無理やりにでも忘れることにして、アキトは振り返り、タオルでダシが取られたお湯で再び麺を湯がき始めることにした。

 

(これでへこたれてくれるような人たちだったら、私としても楽に事が運べるんですけどね……。どうしてアキトさんの周りに集まる人間って、アクが強い人ばかりなんでしょう。もちろん私の除いてですが……)

 

 一息つき。
 今一度客の二人はカウンターへと陣取っていた。真冬で限りなく摂氏零度に近い水が入っているコップを、両手で捧げ持ちながら。

「まったく……どういうことだよ……」

 結局手の平に火傷だけはしていなかった。ヒリヒリしているものの、それだけで、跡に残るような気配はない。こうして冷たいものに晒しておけば、自然赤みも取れていくだろう。が、人の恨みは根強く残るものだ。体に跡が残らなかったからといって、心までそうだとは言い切れない。いや、消え去るほうこそありえそうにない。

「憶えてろよ? 今は天河の前だから何もしねぇけどよ……今度会ったらただじゃ置かねえからな?」

 ルリとユリカにしか聞こえないよう、うめくようにして呪詛を吐き出すリョーコ。そして、激しく同意せんとばかりに、メグミも強く頷く。目は二人とも尖らせたままだ。どこまでも険しく、視線で刺し殺さんばかりの、闘争本能剥き出しの目。殺気を隠そうともせず、只ただ己に危害を加えた――ついでこれから更に加えてくるかもしれないルリたちを睨みつける。

「今日は何だか仕事が楽しいなぁ……ねぇ、ルリちゃん?」
「そうですね。労働とはかくもすがすがしくさせてくれるのだと、今日初めて知りましたよ」

 しかし、対するルリとユリカは、ストレスを解消できた喜びからか、鼻歌すら交え、己の仕事をてきぱきこなすのみだった。つまり、ルリは洗い物を、ユリカはテーブル拭きを。勝者の余裕。そんなものを見せ付けるかのように。

「けっ! ぜってぇ後悔させてやる!」
「いい気になってるのも今のうちよ!」

 敵地へと乗り込んで戦いを挑むのは不利。せめて己のフィールドへ持ち込めば勝機もあるが、生憎と狙うものがそこにある以上、彼女たちが離れる意味はないだろう。ひたすらアキトの傍で防衛していればいいのだ。
 だから、自分たちはあえて甘んじて受けなくてはならない。屈辱に耐え忍ばなくてはいけない。そうしなければ、目の前のご馳走――ラーメンではなく――にありつくことはできないのだから。
 二人の顔が、アキトが見ていないのをいいことに、般若へと歪んでいく。

(ふふふっ……相当悔しがっているようですね)

 その様を視界の片隅で捉え、ルリは笑う。
 そう。まだまだこんなものではないのだ。あれは挨拶代わりでしかない。いたぶる方法は、己の中に幾通りもの方法が描かれていた。どれ一つを選んでみても、受ける側にとっては、我慢がならないものを。この場から去っていきたくなるような、精神的苦痛を感じるものを。

(早くチャンスが訪れないですかね)

「はい、ラーメン二丁出来上がり!」

(来た!)

 狙いすましていたのはこの瞬間。泡にまみれていた手を拭い、行動を起こす準備を整える。ついで、その間にユリカへと視線を送ることも忘れない。
 目が合う――と同時に、頷きも入れる。
 それだけ。それだけだった。しかし、これから起こそうとしている行動は、きっと理解してもらえただろう。
 そのことを確認し、ルリはアキトヘと声を掛けた。

「あ……それ、私が出しておきますよ」
「そうそう。はい、それちょうだい?」

 横合いから、ルリとユリカがどんぶりをひったくるようにして奪う。本来であれば、アキトが後ろを向いて差し出すだけであると言うのに、いつもはそのようにしていたと言うのに、なぜか今回にかぎり余計な手間を二人はかける。意味がない。その行動は、全然論理的でない。
 だが、それを追及できるほど、アキトに度胸はなかった。彼女たちの放つ気迫に圧され、言葉を出すこともできず、ただ固まるのみ。

「はい……メグミさん?」
「どうぞ、リョーコちゃん」

 ガシャン!
 ルリはメグミへと、ユリカはリョーコへと。幾分投げやり気味にどんぶりがテーブルへと置かれる。

「……おい」
「……何のつもりですか?」

 押し殺した声の客二人。雑な対応が気に食わなかったのではない。その程度で気分が悪くなるなら、とっくに殺傷沙汰に陥っている。問題はもっと別のものだ。彼女たちが見ている先は、どんぶり自体ではなく、それを掴み持つ手。よくよく見ると、ルリとユリカがどんぶりを持つ手の親指は、スープの中へ深々と浸っている。それについての言葉だった。

「食べないの? 二人とも……」

 ラーメンを前にしてもまったく動かない様子に、アキトから声がかかる。その不思議そうな声音は、事実に気がついていている風には見えない。いや、狡猾にもルリとユリカは、自分の体を盾にして、手元を覆い隠していたのだ。陰険なやり口をアキトに見せ、心象を悪くさせないために。
 ヒクつくメグミたち。

「い、いえ……、いただきますね、アキトさん」

 うめく。それだけが精一杯だった。アキトは真相に気づいていない。気づかされていない。迂闊にやり返そうと思ったら、悪役は自分のものになるのだから、黙って食べるしかないだろう。
 一口スープを啜る――と、そこでリョーコは口を開いた。

「おう。今日のダシは、心なしかいつもと違うような気がするんだが」

 なけなしの皮肉だ。せめてもの反撃。
 だがルリたちに、動じる気配はまったくなく、

「いいダシが出てるでしょう?」

 至極あっさり打ち返される。挙句、更なる皮肉を乗せながら。

「気に入ったのなら、毎回この味で出させていただきますよ? お得意様ということでサービスしておきましょうか」
「えっ……と、リョーコちゃんにルリちゃん? 俺、前と同じスープを出してるつもりなんだけど、いつもとなんか違ったのかな……」

 言葉の裏に気がついていないアキトは、会話についていけず、見当違いな意見を述べる。しかし、彼としては本気だ。味に支障が出ていれば、様々な問題が出てくるのだから。思ったとおりの味になっていなければ、ましてやそれが自分の得意料理であれば、料理人として失格だろう。これから先、迂闊に客に出すことすらできなくなりかねない。
 周りで骨肉の争いをしている女性たちも、それに気づく。そして、さり気にフォローを入れておき、

「いや、わりぃ。オレの気のせいだ。気にしないでくれ」
「そうよ。ルリちゃんも少しそれに付き合ってみただけなんでしょ? ね?」
「ええ、ユリカさん」

 一時休戦と相成った。

 

「――リちゃん……ルリちゃん?」

 脇から聞こえる声に呼び戻され、ふと手元を見る。真っ二つに折れたはずの割り箸は、回想に耽っている間、更に四つ折り、八つ折りされ、原型を留めない残骸へと化していた。
 あの時の興奮が、無意識にそうさせたのだろう。どうやら、感情移入してしまうほど心の底から浸っていたようだ。
 ルリは、手に纏わり付く木の屑を、苦笑を浮かべながら払い、隣りを見やる。

「お、俺……なんかとんでもないことでも言った?」
「えっ? 何がですか――って、ああ……」

 長い時間懐古の中に身を置いていたせいで、アキトの言葉を一瞬理解することができなかった。元はと言えば、彼が不用意にメグミとリョーコに自分のラーメンを分け与えたことから、あの回想が始まっている。きっと、その辺のことを言っているのだろう。

(今更また怒るってのもね……)

 確かに彼はとんでもないことをした。が、今ではさほど気にならない。歪んではいるが自分なりには透明だと思っている思い出によって、怒りが昇華されてしまったから。溜飲を下げるのに、やぶさかではなくなったから。今なら、すべてのことを許容できるような気がする。例え今目の前にあるように、ユリカがアキトヘと必要以上に近づいていたとしても――だ。

「ふふっ……」

 ルリは、前に座る二人には決して理解できないだろう笑いをこぼすと、小さく、傍にいる者にしか聞こえない程度で言葉を紡ぐ。

「箸……取ってきますから、少し待っててくださいね?」
「ああ、ルリちゃん? 私のもお願い」

 席を立つルリ。
 ユリカへと返事はしないが、してもしなくとも、それほど意味がないことではあったろう。どちらにしても、やることには変わらないのだから。
 備え付けられた、ままごとのようなキッチンへは、もうたどり着いていた。狭くはないが広いとも言えない戦艦の部屋である。ほとんど手を伸ばせば届きそうな距離だ。慣れた手つきで引出しを開け、そこから出すのは二組の箸。

「はい、ユリカさん。一応新品を用意しましたけど……」
「ありがとね。でも、別に普通の箸で良いのに……」

 それほど悪びれた様子もなく、ユリカは礼に謙虚な言葉を付け加える。しかしルリとしては、決して彼女に気を遣ったわけではなく……。
 何となく踏み込ませたくなかったのだ。自分とアキト、二人だけのこの空間に。今は家族として迎えてはいるが、永遠にそうというわけではない。いつも使っている箸であれば、彼女の匂いはどこかしらに残ってしまうだろうが、新品を渡して後でそれを処分すれば、のちに彼女を感じさせるものは、この部屋から消え去るはず。
 とは言え、ルリとしては意識してやったことではなかった。すべては意識下の思惑。彼女が、自分の知る本当の家族とはなりえないと、心のどこかで知っているがゆえ――。

「じゃあ、今度こそ食べようか。すっかり冷めちゃってるけどね」

 ルリが席についたのを確認し、焦れたようにアキトが合図を出した。もう彼としても、待ちくたびれていたのだ。食べようとする流れが、ことごとく出鼻を挫かれるような形になったのだから。
 今度こそ。その言葉には、彼の実感が実に篭っていた。

「うん。それじゃあいただきまーす」
「いただきますね」

 そして。
 ようやく三人が箸を取り、ラーメンを啜り始める。
 無言のまま、先ほどの喧騒を忘れ去ったまま、麺を啜る音だけが鳴り響き。周りの雰囲気がそうさせるのか、不思議と誰も声を出さず、自分の目の前にある器にだけ集中する。
 だがその微妙に成り立っていた均衡も、やがて崩れ去った。それは、ユリカが素早く食べ終わり一息ついて顔を上げた時――

「ど、どうしたの!? ルリちゃん」
「えっ?」

 問われ、ハッとルリは気がつく。
 涙。
 いつの間にか箸は止まり、己の涙が、スープの中にぽたりぽたりと滴になって落ちていた。波紋を作り、かすかな濃淡を作り出し……。自身の気持ちを溶かしきってくれるように、スープは涙をすべて吸い尽くし、取り込んでくれている。

「俺のラーメン……そんなまずかった?」

 おいしくはない。俯いたまま首を強く横に振って否定したが、それは認めよう。あの時とは、決して味は似ても似つかない、お世辞にもおいしいとは言えないものだった。すべてがちぐはぐ、見様見真似でやっただけの、素人から一歩抜け出た程度の料理。プロとしては決して認められない料理。
 しかし、それでもどこかであの味へと繋がっている――そんな気がしてならないのだ。麺のコシ。歯ざわり。味付け。全部が全部違うはずであるのに、確かに懐かしさを憶えていた。

(分からない……分からない……)

 何がそうさせるのか。胸を締め付けてくるものに我慢ができず、ルリは訳も分からず涙をこぼす。

「ねぇねぇ。大丈夫なの?」
「ラーメンの中に変なものでも入ってた? それだったら俺……」

 何も言わず俯いているだけなのを心配に思ってか、二人は席を立って様子を伺いに来た。
 そこでようやく理解する。己の心は、どこかでこんな世界を望んでいたのだと。アキトと二人だけの世界のために邁進している今であるが、どこかで揺らぐ気持ちが存在し、前と同じような世界を構築していくのも、それほど悪いものではない――そう思っていることを。だからこそ今日、アキトにラーメンを作らせ、ユリカを部屋に呼んだのだ。二人だけではなく、三人によって作られる家族。それが欲しくて。

(いつになく感傷的な気分になっていたのも当然ね……)

 この二年間、ついで幼い時分からも欲して止まなかった温もりが、望めばすぐそこに手に入る。アキトだけの世界とはまた別な、穏やかで優しい温もり。
 悪くない。こんな安らぎも悪くなかった。
 涙を流すわけを知った今は、もう堪えることができず。二人が見ているというのに、外聞も忘れ、ただ涙するしかできない。声なく、静かに。

「ルリちゃん?」
「何でもないんです。ほんとに……」
「で、でも」

 顔を覗き込むようにして、ユリカが声をかけてくる。日頃からいがみ合ってはいるお互いだが、心から心配してくれていることは疑いようもない。
 ルリには、普段は突っぱねているその優しさが、今は痛いくらいに身に染みた。

(そんな風にされたら、私は……)

 もう限界だ。縋りつきたくてしょうがない。いつもと比べ、極端に弱くなってしまった自分の心が恨めしい。だが、すでに己の手の中から離れ、暴走を始めている。本当に――本当に限界だった。

「きゃっ」

 理性から感情を切り離されてしまい、ユリカの胸へ飛び込む。そして堪えきれずに嗚咽。

「きゅ、急にどうしたの……?」
「いえ……ただ、少しだけこうさせてください。そう……少しだけ……」

 心地よい温もり。髪を撫でられる感触も、普段ならアキト以外にさせたくないところだが、今はたまらなく気持ちいい。
 もう少し。もう少しだけ――
 ルリは何も語らず、抱きつく腕にギュッと力を込めた。

 

「ユリカさん、すみませんでした」

 やがて。
 段々と体の震えもなくなり、完全に消え去ったころ、ルリはユリカの体を押すようにして身を離した。涙は流れていない。目は赤く染まっているが、それ以外では、いつもの彼女となんら変わる様子もなし。先ほどまでの出来事を留めるのはただ、ユリカの士官服に染み付いた泣き跡だけであった。

「そしてアキトさんも……。決しておいしいとは言えませんでしたが、悪くはなかったですよ?」

 振り返り、彼に向けて微笑みを浮かべる。とても先刻までの彼女とは思えないほどの、晴れやかな笑みを。

「そうか……ありがとう」

 自然、何が起こったのか分からず混乱していた二人も顔が緩んだ。どうしてルリがそういう気分になったのかというものは、もう関係ない。彼女の中で納得し、解決されたことであるのが分かったから。だからこそ何も言わず、ただルリを見守る。

「あっ……!」

 そんな中。ルリは拍子もなく呟きを上げ、何かを閃いたように目をぱちくりさせた。ついで、すぐさま口を開く。

「そうそう……ユリカさん? 話があるんですが、いいでしょうか」
「えっ? なに?」
「ここじゃあ何ですから、部屋の外に……」

 チラリとアキトのほうへと視線を送り、言外に彼が関係していることを匂わせる。これで間違いなくユリカは誘いに乗ってくれるだろう。断るという選択肢を取られることはまず無さそうな雰囲気ではあるが、保険は大事だ。
 当然ユリカは――

「う、うん……分かった」

 先の泣きはらしたこととアキトが関係していて、更には彼自身に告げられず、自分へと相談する。彼女はそう受け取ったらしく、珍しくも緊張を浮かべ、同意した。

「では行きましょうか」

 気が変わらないうちに。少しでも早く。
 ルリは、強引にユリカの背中を押しやりつつ、部屋の外へと追い出していく。そして、玄関口までたどり着いたとき、振り返って――

「アキトさん? すぐに帰りますから、ちょっと待っててくださいね?」
「ああ。じゃあ、残りのラーメンでも食べながら待ってるよ」

 その言葉を聞きながら、ルリたちは通路へと踊り出た。
 待ち受けていたのは、左右に長く延びた通路。壁に等間隔に並ぶドア。無機質なまでに同じ模様が、どこまでも続く。
 こんな開けっぴろげた場所では、秘密の相談事には似つかわしくない。そう思わせ、ユリカは困惑気味に右へ左へと視線を送った。しかし、それも扉が閉まるまでで、それと同時に振り返り、更には問う。

「で、ルリちゃん? 何か相談事でもあるの?」

 ちらちらと今までいた部屋を扉越しに覗こうとしている様子は、ルリがどうというよりも、アキトが心配なため――そんな匂いを思わせた。彼女の基準では、アキトとルリを比べた場合、どちらに軍配が上がるか。それを如実に表した結果とも言える。

(それも仕方がないことでしょうね)

 気分を害することもなく。ルリは気づかれぬよう嘆息した。
 自分とて同じなのだ。似たような条件では、間違いなく目の前の女性ではなくアキトを取るだろう。一概に彼女ばかりを責めるわけにもいかない。その意味では同じ穴のムジナなのだから。

「いえ。別に相談というわけではありませんが……」

 手で、こちらへ来いというように合図をしながら言葉を濁す。
 それにより、何の疑問も浮かべず――いや、周りに聞かれたくないことだからこそ、あまり大きな声で言いたくなかったのだろうと納得し、寄ってくるユリカ。

「じゃあ……」
「こういうことですよ」
「あっ!」

 そのあとのルリの行動は早かった。ユリカを軽く突き飛ばすと、扉を開き、後ろへと体を滑らせ部屋の中に入って、閉じる。分厚い無骨な金属の扉が二人を分かたせ。通路にポツリ、ユリカが置き去りにされ……。
 しばらく呆然としていたユリカであったが――

「ちょっ、ちょっとルリちゃん!? これはどういうことなのよ! 開けなさい!」

 ガンガンガン!!
 気を取り直したユリカが、困惑を交えた怒声を、扉に――その奥のルリにと浴びせる。同時に、拳をドアに打ちつける音。あまりに突然なことに、艦長権限であるマスターキーの存在すら忘れ、ただただ激情を扉へぶつけていた。

「こらー! 何とか言いなさぁい!」
「あれで最後……」
「えっ?」

 背中を扉に預け、声を受けたかのように、ルリが扉越しに背後へと言葉をかける。が、その声は、ユリカに向けたようで、そうではなく。どこか自分に言い聞かせるような、独白の響きを持っていた。

「あなたをこの部屋に入れるのはあれで最後にします」

 かすれていきそうなか細い声で、しかしながら、きっぱりと言い切る。
 それは、自らが望むもう一つの未来への決別。ユリカへの宣戦布告。もう彼女を、家族の一員として見るつもりはなく……。後ろ髪を惹かれる未練に別れを告げた瞬間だった。

「何を勝手なこと言ってるのよ! こら! 早く部屋に入れなさいってば!」
「ねぇ、ルリちゃん? ユリカ……いいの?」

 ガンガンと扉を打ちつける音を聞きながら、躊躇いがちに声をかけるアキト。彼も、ラーメンの残りを片付けながら、様子を始終見ていたのだ。理不尽なまでのルリの行動に、流石の彼も消極的な意見を具申するのだが――

「ええ。いいんです」

 あっさり。さも当然とばかりにルリは頷く。寂しげな顔を浮かべるものの、迷いや躊躇いは見られない。確固たる意思がそこには存在していた。

「これが私の選んだ道……ですから」
「そ……そう……」

 テーブルに残された三つのどんぶり。それを眩しげに見つめ、扉から伝わる振動を背中に受けつつ、そっとルリは呟いた。

「もう……後戻りはできませんからね」

 

 

―― 終 ――


この素晴らしい作品を書かれた秋代 紫苑さんにぜひ感想のメールを書きましょう♪ 本編は「追憶の間」にて絶賛連載中!


《後書き》

 気付いた方はいらっしゃるでしょうか、この番外(前後編両方とも)は、プロローグとエピローグを除いてすべてワンシーンで構成されています。回想を挟みながらとはいえ、中編に相当する長さがそれって……。しかも、ただラーメンを食べるだけの話なのに……。
 昔、あまりにも短くて、どうやって水増ししてやろうかと常々悩んでいたのが嘘のようです。